映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

外人部隊 - LE GRAND JEU -(ジャック・フェデー)

2016年05月13日 15時23分38秒 | ジャック・フェデー
外人部隊 - LE GRAND JEU - (1933年 120分 フランス)

監督  ジャック・フェデー Jacques Feyder
脚本  ジャック・フェデー
    シャルル・スパーク Charles Spaak
撮影  ハリー・ストラドリング
音楽  ハンス・アイスラー
助監督 マルセル・カルネ Marcel Carne
    シャルル・バロワ

出演  マリー・ベル Marie Bell
    ピエール・リシャール=ウィルム
    フランソワーズ・ロゼー Francoise Rosay
    ジョルジュ・ピトエフ
    シャルル・ヴァネル
    カミーユ・ベール


裏切る.
(1)味方にそむいて敵方につく.▽なかまを―.
(2)約束や信義にそむく.▽友情を―.
(3)予想と反対の結果を招く.

フランスでの出来事
ピエールは女に貢ぐため(2)約束や信義に背くことをして、(3)予想と反対の結果を招き、国外に追放されてモロッコの外人部隊に流れて行く事になった.
フローランスは彼とは一緒に来なかった.好きな女が去っていった結果は、彼の予想と反対の結果だった.人を裏切った結果は、自分を裏切ることになったと言える.(自分の期待とは反対の結果になった.期待が裏切られた)


モロッコ
売春宿のおやじクレマンは、毎日のように店の女の子に手を出していた.妻ブランシュへの裏切りなのだが、ブランシュは夫の浮気を知りながら何も言わなかったようだ.無言が示す夫婦仲の悪さを、なんと言ったらよいのであろうか.

クレマンがイルマに手を出し、成り行きとは言えピエールはクレマンを殺すことになった.クレマンの行為はピエールに対する信義に背く行為であり、使用人に対しても、妻に対しても同様であったはず.
ブランシュは夫が殺されたにもかかわらず、ピエールを嘘の証言でかばうことにした.つまり、浮気者、裏切り者の夫は生きているに値しなかったと言うことになる.自分で裏切り者と知りながら、その行為を止めようとしないやつ、裏切りを悪いことと思わないやつは生きているに値しない.

偵察に出掛けるとき、イワノフが志願したのに親友のピエールは志願するのを躊躇った.そしてイワノフは死ぬことになった.ピエールは自分も一緒に行っていたら、と後悔したのだが.彼は好きな女、イルマと一緒に暮したい、死ぬのは嫌だと思い、友情という信義に背いてしまったのであろうか.
イワノフの写真ののった新聞、革命家、芸術家、殺人犯?、彼の過去は分からない.彼に言わせれば、外人部隊とは過去を帳消しにする権利を買うことだった.彼の死は、その過去に人として許されないもの、生きているに値しない愚かさが存在することを暗に示しているようだ.

偶然フローランスと再会したピエール.再会したフローランスとの会話の中で、彼はフローランスの自分に対する裏切りにと気付くと同時に、自分を愛していない女を思い続けてきた、未練に染まった愚かな自分に気づき、更にイルマの愛に対する裏切り、そしてイワノフの友情に対する裏切りにも、気付くことになった.

お金を渡したとは言え、イルマを一人で船に乗せ、しかもピエールは再び外人部隊に志願した.
なぜなのか?.この点が、この表現が私には分らなかった.
フローランスに再開したピエールは、イルマを裏切ってしまった.しかし、彼は自分の間違いに気がついたので、おとなしくイルマと一緒に船に乗ればよかったはず、現実の世界なら、それで良いであろう.
彼は、それまでに幾度も裏切りを繰り返してきた.もう生きているに値しないと思ったのであろうが.
あくまで映画での表現として、
好きな女のために、第3者を裏切るということは、結局は好きな女を裏切ることである.

ミモザ館 - PENSION MIMOSAS - (ジャック・フェデー)

2015年07月03日 17時41分15秒 | ジャック・フェデー
ミモザ館 - PENSION MIMOSAS - (1934年 110分 フランス)

監督  ジャック・フェデー
製作  シャルル=フランシス・タヴィノ
脚本  ジャック・フェデー
    シャルル・スパーク
撮影  ロジェ・ユベール
音楽  アルマン・ベルナール

出演  フランソワーズ・ロゼー
    ポール・ベルナール
    アンドレ・アレルム
    ジャン・マックス
    アルレッティ
    レイモン・コルディ


偽善者

孤児院に送られる運命の犯罪者の子供を引き取って、名付け親になって育てていたこの夫婦の、子供ピエールへの愛情は人並みならぬもの、実の親以上のものであった.

ピエールの、おじさん
賭博師.カジノの支配人.賭博場には破滅してその場で自殺する客が多く居るのだが、そんな時でも、自殺した客のことなどお構いなく、白々しく体裁を装って、賭博を続けるのが習わしらしい.
また、ホテルの客の宿代を厳しく取り立てるのも、この男の流儀なのだが、反面、一文無しの人間に対しては食事を奢る、そんな一面も持ち合わせていた.

ピエールの、おばさん 
カジノの近くという地の利を生かして、カジノ通いの客を相手に、安宿を経営している.
子供が客から貰った玩具のルーレットで、学校で賭博をして相当なお金を稼いで来た時、子供を叱りつけ、さらに、言うことを聞かない子供を平手打ちにして、『賭の代償は平手打ちより恐ろしい』、こう言ったのだが.....

子供、ピエール
周りの人間は博打打ちばかり、自然と博打に親しみを持つ環境で彼は育った.その所為と言うべきであろう、育ての親の期待に反して、大人になった彼は放蕩息子、盗んだ車の色を塗り替えて客を騙して売りつけるような、如何わしい生活をしていた.そして、数年来、あれこれと言い訳を並べては、育ての親にお金の無心をするような生活だった.

女、ネリー
男から男へと気ままに渡り歩く女.察するに、彼女はお金のない男は不要であり、なおかつお金のある男には、異常な興味を抱く女らしい.金遣いが荒く、お金のためなら体を売ることをなんとも思っていない.一般的に言えば淫売.

おばさんがパリにピエールを尋ねたとき、彼女は不良仲間達と一見仲良く接していたのだが、けれどもピエールが戻ってくるには、そうした仲間達といっさい縁を切るのが条件だった.ピエールを呼び戻そうとするおばさんと、条件を飲めないピエールの話し合いは物別れに終わったかに思えたのだが、けれども、親分の女ネリーに手を出したピエールは、追い埋められてミモザの館に戻ってきた.
やがてネリーから手紙が来た.女を呼ぶにはお金が要るというピエールに対して、約束が違う、嫌なら出て行けと、一度は突き放したおばさんであったが、ピエールを離したくない思いからであろう、お金を工面してネリーを呼ぶことに同意したのだった.

パリでのピエールの生活を考えれば、おばさんがパリの仲間達といっさい縁を切ることを要求した事、ネリーを呼ぶことにも不本意だったのは理解できるのだが.....そして、金遣いの荒いネリーを、おそらく体を売ってお金を得ているであろうネリーを追い出そうとしたのも、これも当然のことに思えるのだけど.....

今一度ピエール
彼がなぜ戻ってきたかと言えば、ほかに行く当てがないから、当座の生活のためと考えれば、お金のためである.おばさんを頼ってきたのであるが、慕ってきたのではない.
ネリーを呼ぼうとしたとき反対された彼は、お金を盗もうとした.この時も、詫びて自信の行為を反省したかに見えたけれど、その後、ネリーが来たときの二人の会話を考えれば、心底反省していたとは思えない.
しかし、彼にしても金遣いの荒いネリーに手を焼いていたのは間違いなく、悪女の正体が見えてくるにつれて、次第におばさんの方へ考えが寄っていっていたのも事実であったはず.
その心が、『人並みに家があれば』と言うネリーの言葉によって大きく揺らぎ、彼はミモザ館を出る決心をした.その話をおばさんにしたときの言葉から、彼もおばさんを慕っているかの印象を受けたのだけど、それは違って、おばさんが自分を溺愛している、その心につけ込んで、おばさんを利用していたに過ぎなず、単なる金ずるに過ぎなかったのだと思われる.

ピエールは、盗んだ車を塗り直して売りつける人間であり、金づるのおばさん達に対する態度も、お金を引き出すために表面を取り繕っていたに過ぎなかった.
おばさんは、お金が欲しいなら出て行けと言い、彼もお金をくれないなら、盗んで出て行くつもりだった.
彼は、好きな女のためなら、お金をおしいとは思わなかった.その結果として、最後には悪い女の分っていてもネリーを繋ぎ止めるために、博打で金を稼ごうと会社の金を使い込んでしまった.

ネリーは、お金のためなら誰とでも寝る女であった.文句があるなら、出て行くと言い張った.

おばさんは、溺愛するピエールのためなら、あれこれと小言を言ったにしても、結果としてお金を惜しまなかった.ピエールが嘘をついていることを知りつつもお金を渡していた.

おばさんとピエールは、相手が悪いと知りつつも、自分が欲しいものを手に入れるためならお金を使った.
ネリーはお金が欲しくて、体を売った.この場合、体を売ることが悪いかどうかは、関係なかろう.欲しいものを手に入れるためなら、悪いと知りつつもお金を払う人間と、お金が欲しくて体を売る人間、言い換えれば、お金が欲しくて悪いことでも行う人間の比較であり、欲しいものを手に入れるためなら善悪の判断を失う、どちらも同じ人間であると言える.

たとえ放とう息子であれ、それを分かっていたにしても、お金が必要であり、同時にそのお金を工面できるならば、援助することが悪いこととは思わない.
だから、ネリーを呼ぶお金が必要となったとき、指輪を担保にお金を工面して渡したことは構わないけれど、けれども、約束通り出て行かせなければならなかったし、ピエールも金を盗んで出て行くつもりだったので、それで構わなかったはずである.こう考えれば、ピエールを引き留めておきたいがためにお金を渡した、おばさんが間違っている.
あの時、『約束と違うからお金は上げない.出て行け』から『お金を上げるから、居て欲しい』に、おばさんの態度が変わったけれど、ピエールと一緒に暮らしたいと言う、自分の都合にあわせただけで、ピエールのことを考えたわけではなかった.もしピエールのことを考えたのならば、『好きな女と一緒に暮らしたいだろうから、お金を上げる.けれども約束と違うから出て行け(どうせろくな女でないだろう)』、こう言うべきだと思うのだけど.

このように考えれば、なぜピエールが博打でお金を稼ごうとしたかも見えてくる.彼は、おばさんが自分と一緒に暮らしたいのでお金をくれるのが分っていた.だから、出て行くという自分におばさんがお金をくれないはずであり、くれとも言えなかった.そして、ネリーを呼ぶときお金を盗もうとしたのと同じで、今度は博打で稼ごうとしたのである.
重ねて書けば、この場合も同じ.『好きな女と二人で暮らしたいのは、当然のこと.(沢山は無理だけど)お金を上げるから出て行きなさい』、これだけの話のはず.

カジノの支配人、自殺者が出ることを当然のことと思っている、偽善の塊.もっぱらカジノへ通いつめる客を泊めてお金を稼いでいる、その妻も同じである.
ピエールは、お金を得るために、おじさん、おばさんの前で良い子のふりをしていた、偽善の塊.

ネリー、この女は見え見えの悪女で、偽善者ではない.
『意地悪で陰険な人ね、最低の偽善者だわ』
『あなたは丸め込まれても私は我慢できない』
.....
『あの人の勝ちね』
.....
『私に嫉妬を』
『あの人は言葉には出さず、冷たい目で私を見るだけ』
『もう、うんざり』
彼女は、おばさんのことを、このように言ったが、その通りであった.
重ねて書けば、ネリーは偽善者ではない.偽善者は最後まで騙し通してお金を巻き上げ相手を破滅させるけれど、彼女はお金をくれなければ、自分で体を売ってお金を稼いでいたのである.

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陰険
おばさんがピエールを引き留めておくために、ネリーの情夫に電報で知らせた行為、この陰険さは誰にでも分るはず.
同様に、ネリーから手紙が来たとき、ピエールはお金を盗もうとしたが、この愚かさも誰にでも分ること.
では、この時の、おばさんの取った態度はどうだったのか?

最初は、『約束が違うから、お金は上げない.出て行け』と言った.
メイドが地下室の鍵を借りに来た.『ピエールの鞄を取りに行く』のだという.
おばさんは、指輪を担保に、お金を借りに出掛けた.
戻ってきたら、ピエールがお金を盗むところに出くわした.

おばさんはお金を上げなければ、文無しのピエールは出て行かないと思っていた.そう考えた上で、『出て行け』と言ったのだけど、本当にピエールが出て行こうとしているので、あわててお金の工面に出掛けた.
相手の弱みを知った上で、『出て行け』と言ったのであり、陰険な行為だった.他方ピエールも、その陰険さに答えるようにお金を盗もうとした、似合いの行為だった.

上辺では澄ましていながら、客が破滅するまでお金を巻き上げるカジノ.
ニコニコ笑顔を作ってドアをノックし、厳しく宿代を取り立てるホテル.
まさに、陰険の塊でした.

さて、さて、本当に悪いのは誰なのか?

カジノにとってお客とは、お金.
ホテルにとってお客とは、お金.
ピエールにとっておばさんは、お金.
ネリーにとってピエールは、お金.

おばさんにとってピエールは愛情.
ピエールにとってネリーは愛情.
ピエールがお金しか必要としていないのに、おばさんはピエールを愛していた.
同様に、ネリーがお金しか必要としていないのに、ピエールはネリーを愛していた.
ならば、おばさんがピエールを必要とするならば、ピエールが必要なネリーも、愛して上げなくては.

ネリーは淫売、少し付き合えば分る悪女.彼女は体を売って、分相応のお金を稼いでいたらしい.けれども、それだけのことで相手は、破滅するわけではない.
それに対してカジノとは、上辺は善人面しながら、相手が破滅するまで金を巻き上げる悪魔である.

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1945年8月6日、広島に原爆が投下された.その翌日に、妻の名前で国際赤十字に、現在のお金で30億円を越える寄付をしようとした神様が居たが、この神様の正体とは?.
(このお金、そんな汚いお金は受け取るべきではないという意見で、しばらく宙ぶらりんになっていた)




















女だけの都 - LA KERMESSE HEROIQUE - (ジャック・フェデー)

2013年01月19日 03時02分40秒 | ジャック・フェデー
女だけの都 - LA KERMESSE HEROIQUE - (1935年 114分 フランス)

監督  ジャック・フェデー Jacques Feyder
脚本  ジャック・フェデー
    シャルル・スパーク Charles Spaak
撮影  アリ・ストラトリング
    ハリー・ストラドリング
音楽  ルイ・ベイツ

出演  フランソワーズ・ロゼー Francoise Rosay
    ジャン・ミュラー
    アンドレ・アレルム


勇敢と卑怯ではなくて、勇気と臆病

あの町長、死ぬのは自分一人でいいと死んだふり.勇気があるというよりやはり臆病.画家の男もなかなか結婚話を相手の父親である町長に言い出せなくて、彼も臆病で意気地なしだった.
けれども、意気地なしは卑怯とは違う.町長と助役の肉屋は、結婚を商売の取引に使うのですが、これは許されない卑怯な行為言わなければなりません.
さて、勇敢の方はと言えば、町長の妻は女だけでスペイン軍に立ち向かおうとする、一見勇敢に見えなくないけれど、その実態は女の武器で立ち向かうという、いささか怪しげな手法で、男たちと比べれば、逃げ隠れせず正々堂々と立ち向かう分、勇気のある行為ではあるのですが、勇敢とは言い難いようです.
使用人の娘のお尻を弓で射た男の子、母親一人で行かせまいと自分も一緒に行くと言う.母親は「優しい子ね」とは言ったのですが、勇敢とは言いませんでした.鏡をしっかり持っていて、とは勇気は認めるが、勇敢はたしなめた光景と思えます.

勝手に抵抗してはならないとお触れを出して、自分は死んだふりの町長の行為は、描かれた通りその功労者であると言って良いのですね.公爵は小枝に水をつけ、死んだふりの町長にかけて後は知らん顔.あまりに弱すぎて、相手にするのも馬鹿げた事だったのでしょう.
そして、妻が体を与えて町を守ったのではないはず.母親が子供の幸せを思う心、もう少し広く捉えて、愛するものを守る心が町の幸せを守った、こう言って良いのでしょうか.

まとめましょう.
卑怯は悪、そして愛するものを守る勇気は忘れてはならないけれど、適いっこない相手に立ち向かうことは勇敢であるかもしれないが、本当に勇気のある行為かどうかは怪しい.
卑怯は争いを生む.勇敢に立ち向かえば、やはり争いを生むことになる.けれども、臆病は争いを生みません.結果的に争いを起こさずに、平穏のままスペイン軍は去って行きました.