映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

ミモザ館 - PENSION MIMOSAS - (ジャック・フェデー)

2015年07月03日 17時41分15秒 | ジャック・フェデー
ミモザ館 - PENSION MIMOSAS - (1934年 110分 フランス)

監督  ジャック・フェデー
製作  シャルル=フランシス・タヴィノ
脚本  ジャック・フェデー
    シャルル・スパーク
撮影  ロジェ・ユベール
音楽  アルマン・ベルナール

出演  フランソワーズ・ロゼー
    ポール・ベルナール
    アンドレ・アレルム
    ジャン・マックス
    アルレッティ
    レイモン・コルディ


偽善者

孤児院に送られる運命の犯罪者の子供を引き取って、名付け親になって育てていたこの夫婦の、子供ピエールへの愛情は人並みならぬもの、実の親以上のものであった.

ピエールの、おじさん
賭博師.カジノの支配人.賭博場には破滅してその場で自殺する客が多く居るのだが、そんな時でも、自殺した客のことなどお構いなく、白々しく体裁を装って、賭博を続けるのが習わしらしい.
また、ホテルの客の宿代を厳しく取り立てるのも、この男の流儀なのだが、反面、一文無しの人間に対しては食事を奢る、そんな一面も持ち合わせていた.

ピエールの、おばさん 
カジノの近くという地の利を生かして、カジノ通いの客を相手に、安宿を経営している.
子供が客から貰った玩具のルーレットで、学校で賭博をして相当なお金を稼いで来た時、子供を叱りつけ、さらに、言うことを聞かない子供を平手打ちにして、『賭の代償は平手打ちより恐ろしい』、こう言ったのだが.....

子供、ピエール
周りの人間は博打打ちばかり、自然と博打に親しみを持つ環境で彼は育った.その所為と言うべきであろう、育ての親の期待に反して、大人になった彼は放蕩息子、盗んだ車の色を塗り替えて客を騙して売りつけるような、如何わしい生活をしていた.そして、数年来、あれこれと言い訳を並べては、育ての親にお金の無心をするような生活だった.

女、ネリー
男から男へと気ままに渡り歩く女.察するに、彼女はお金のない男は不要であり、なおかつお金のある男には、異常な興味を抱く女らしい.金遣いが荒く、お金のためなら体を売ることをなんとも思っていない.一般的に言えば淫売.

おばさんがパリにピエールを尋ねたとき、彼女は不良仲間達と一見仲良く接していたのだが、けれどもピエールが戻ってくるには、そうした仲間達といっさい縁を切るのが条件だった.ピエールを呼び戻そうとするおばさんと、条件を飲めないピエールの話し合いは物別れに終わったかに思えたのだが、けれども、親分の女ネリーに手を出したピエールは、追い埋められてミモザの館に戻ってきた.
やがてネリーから手紙が来た.女を呼ぶにはお金が要るというピエールに対して、約束が違う、嫌なら出て行けと、一度は突き放したおばさんであったが、ピエールを離したくない思いからであろう、お金を工面してネリーを呼ぶことに同意したのだった.

パリでのピエールの生活を考えれば、おばさんがパリの仲間達といっさい縁を切ることを要求した事、ネリーを呼ぶことにも不本意だったのは理解できるのだが.....そして、金遣いの荒いネリーを、おそらく体を売ってお金を得ているであろうネリーを追い出そうとしたのも、これも当然のことに思えるのだけど.....

今一度ピエール
彼がなぜ戻ってきたかと言えば、ほかに行く当てがないから、当座の生活のためと考えれば、お金のためである.おばさんを頼ってきたのであるが、慕ってきたのではない.
ネリーを呼ぼうとしたとき反対された彼は、お金を盗もうとした.この時も、詫びて自信の行為を反省したかに見えたけれど、その後、ネリーが来たときの二人の会話を考えれば、心底反省していたとは思えない.
しかし、彼にしても金遣いの荒いネリーに手を焼いていたのは間違いなく、悪女の正体が見えてくるにつれて、次第におばさんの方へ考えが寄っていっていたのも事実であったはず.
その心が、『人並みに家があれば』と言うネリーの言葉によって大きく揺らぎ、彼はミモザ館を出る決心をした.その話をおばさんにしたときの言葉から、彼もおばさんを慕っているかの印象を受けたのだけど、それは違って、おばさんが自分を溺愛している、その心につけ込んで、おばさんを利用していたに過ぎなず、単なる金ずるに過ぎなかったのだと思われる.

ピエールは、盗んだ車を塗り直して売りつける人間であり、金づるのおばさん達に対する態度も、お金を引き出すために表面を取り繕っていたに過ぎなかった.
おばさんは、お金が欲しいなら出て行けと言い、彼もお金をくれないなら、盗んで出て行くつもりだった.
彼は、好きな女のためなら、お金をおしいとは思わなかった.その結果として、最後には悪い女の分っていてもネリーを繋ぎ止めるために、博打で金を稼ごうと会社の金を使い込んでしまった.

ネリーは、お金のためなら誰とでも寝る女であった.文句があるなら、出て行くと言い張った.

おばさんは、溺愛するピエールのためなら、あれこれと小言を言ったにしても、結果としてお金を惜しまなかった.ピエールが嘘をついていることを知りつつもお金を渡していた.

おばさんとピエールは、相手が悪いと知りつつも、自分が欲しいものを手に入れるためならお金を使った.
ネリーはお金が欲しくて、体を売った.この場合、体を売ることが悪いかどうかは、関係なかろう.欲しいものを手に入れるためなら、悪いと知りつつもお金を払う人間と、お金が欲しくて体を売る人間、言い換えれば、お金が欲しくて悪いことでも行う人間の比較であり、欲しいものを手に入れるためなら善悪の判断を失う、どちらも同じ人間であると言える.

たとえ放とう息子であれ、それを分かっていたにしても、お金が必要であり、同時にそのお金を工面できるならば、援助することが悪いこととは思わない.
だから、ネリーを呼ぶお金が必要となったとき、指輪を担保にお金を工面して渡したことは構わないけれど、けれども、約束通り出て行かせなければならなかったし、ピエールも金を盗んで出て行くつもりだったので、それで構わなかったはずである.こう考えれば、ピエールを引き留めておきたいがためにお金を渡した、おばさんが間違っている.
あの時、『約束と違うからお金は上げない.出て行け』から『お金を上げるから、居て欲しい』に、おばさんの態度が変わったけれど、ピエールと一緒に暮らしたいと言う、自分の都合にあわせただけで、ピエールのことを考えたわけではなかった.もしピエールのことを考えたのならば、『好きな女と一緒に暮らしたいだろうから、お金を上げる.けれども約束と違うから出て行け(どうせろくな女でないだろう)』、こう言うべきだと思うのだけど.

このように考えれば、なぜピエールが博打でお金を稼ごうとしたかも見えてくる.彼は、おばさんが自分と一緒に暮らしたいのでお金をくれるのが分っていた.だから、出て行くという自分におばさんがお金をくれないはずであり、くれとも言えなかった.そして、ネリーを呼ぶときお金を盗もうとしたのと同じで、今度は博打で稼ごうとしたのである.
重ねて書けば、この場合も同じ.『好きな女と二人で暮らしたいのは、当然のこと.(沢山は無理だけど)お金を上げるから出て行きなさい』、これだけの話のはず.

カジノの支配人、自殺者が出ることを当然のことと思っている、偽善の塊.もっぱらカジノへ通いつめる客を泊めてお金を稼いでいる、その妻も同じである.
ピエールは、お金を得るために、おじさん、おばさんの前で良い子のふりをしていた、偽善の塊.

ネリー、この女は見え見えの悪女で、偽善者ではない.
『意地悪で陰険な人ね、最低の偽善者だわ』
『あなたは丸め込まれても私は我慢できない』
.....
『あの人の勝ちね』
.....
『私に嫉妬を』
『あの人は言葉には出さず、冷たい目で私を見るだけ』
『もう、うんざり』
彼女は、おばさんのことを、このように言ったが、その通りであった.
重ねて書けば、ネリーは偽善者ではない.偽善者は最後まで騙し通してお金を巻き上げ相手を破滅させるけれど、彼女はお金をくれなければ、自分で体を売ってお金を稼いでいたのである.

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陰険
おばさんがピエールを引き留めておくために、ネリーの情夫に電報で知らせた行為、この陰険さは誰にでも分るはず.
同様に、ネリーから手紙が来たとき、ピエールはお金を盗もうとしたが、この愚かさも誰にでも分ること.
では、この時の、おばさんの取った態度はどうだったのか?

最初は、『約束が違うから、お金は上げない.出て行け』と言った.
メイドが地下室の鍵を借りに来た.『ピエールの鞄を取りに行く』のだという.
おばさんは、指輪を担保に、お金を借りに出掛けた.
戻ってきたら、ピエールがお金を盗むところに出くわした.

おばさんはお金を上げなければ、文無しのピエールは出て行かないと思っていた.そう考えた上で、『出て行け』と言ったのだけど、本当にピエールが出て行こうとしているので、あわててお金の工面に出掛けた.
相手の弱みを知った上で、『出て行け』と言ったのであり、陰険な行為だった.他方ピエールも、その陰険さに答えるようにお金を盗もうとした、似合いの行為だった.

上辺では澄ましていながら、客が破滅するまでお金を巻き上げるカジノ.
ニコニコ笑顔を作ってドアをノックし、厳しく宿代を取り立てるホテル.
まさに、陰険の塊でした.

さて、さて、本当に悪いのは誰なのか?

カジノにとってお客とは、お金.
ホテルにとってお客とは、お金.
ピエールにとっておばさんは、お金.
ネリーにとってピエールは、お金.

おばさんにとってピエールは愛情.
ピエールにとってネリーは愛情.
ピエールがお金しか必要としていないのに、おばさんはピエールを愛していた.
同様に、ネリーがお金しか必要としていないのに、ピエールはネリーを愛していた.
ならば、おばさんがピエールを必要とするならば、ピエールが必要なネリーも、愛して上げなくては.

ネリーは淫売、少し付き合えば分る悪女.彼女は体を売って、分相応のお金を稼いでいたらしい.けれども、それだけのことで相手は、破滅するわけではない.
それに対してカジノとは、上辺は善人面しながら、相手が破滅するまで金を巻き上げる悪魔である.

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1945年8月6日、広島に原爆が投下された.その翌日に、妻の名前で国際赤十字に、現在のお金で30億円を越える寄付をしようとした神様が居たが、この神様の正体とは?.
(このお金、そんな汚いお金は受け取るべきではないという意見で、しばらく宙ぶらりんになっていた)




















ランジュ氏の犯罪 - LE CRIME DE MONSIEUR LANGE - (ジャン・ルノワール 1936年 76分 フランス

2015年07月02日 15時41分39秒 | ジャン・ルノワール
ランジュ氏の犯罪 - LE CRIME DE MONSIEUR LANGE - (1936年 76分 フランス)

監督  ジャン・ルノワール
脚本  ジャン・ルノワール
    ジャック・プレヴェール
撮影  ジャン・バシェーレ

出演  ルネ・ルフェーブル
    フロレル
    ジュール・ベリ
    マルセル・レヴェスク
    オデット・タラザク
    アンリ・ギゾール
    モーリス・バケ


日本未公開の作品で、日本で観れるのは、今回のDVDの発売が初めてのようです.
残念ながら、全体に渡って画質は良くありません.

まずは、どうしようもない男、
バタラ
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「生きてて、くやしいだろ.殺すしかないな」
「ああ.泣く者など...」
「いるさ、女たちだ」
この男は詐欺師、出資者を騙し、社員を騙し、女を騙し、神父に化けて人々の善意を欺き、生きている限り皆を苦しませる、自ら言う通り「殺すしかない」どうしようもない人間.
殺されたら女が泣くと嘘ぶいたけれど、舌の渇かぬうちにまた女を泣かせ始めた.

ムニエ
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「死んだ?.簡単だね」
「逃げるのよ」
.....
「人を殺した」
「嘘だろ」
「本当よ」
「そうか.頭では分るが、その経験はない」
「だが、最良の方法はすぐ逃げることだな.行くぞ、私に任せろ」
.....
「どうする?」
「逃げるのよ.私も一緒に行く」

とにかく、急いで急いで、国境まで逃げてきた.....
それはそれとして、普通は逃げるのを手助けするのなら、誰を殺したのか?、なぜ?、と聞くものなのだけど.....




食事と宿泊の『国境』
ヴァランティーヌ
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「確かに人を殺した.でも、その事情を説明するから聞いて.それでも通報するなら仕方ないわ」
「もし.....私の名前はヴァランティーヌ.恋多き女だけど、今は彼ひとすじよ.....」
.....
「私は、ありのままを話しただけ.ひどい話だけど、これが真実よ.好きにして」

現在の日本の感覚で言えば、まず逃げ切ることは出来ないのと、おそらく裁判が正しく行われるであろう期待から、『私なら自首を勧める』と、多くの方が言うと思います.
事情を聞いて自首を勧める、その考え方はこの映画においても基本的にはその通りであって、ヴァランティーヌは事実をありのままに話して、後の判断は皆に任せました.皆が警察に通報したならば、宿で警察に捕まるだけのこと、自分が警察まで出向くか、迎えに来てもらうのか、違いがあったにしても、自首したのと同じ事でした.

法律が絶対に正しいとは言いきれない、法の裁きが絶対に正しいとは言いきることは出来ない.であるならば、ランジュ氏の殺人、その過ちが、間違った法律で裁かれるに値するかどうか?.
間違いと間違いを秤にかけた、その結果は、値しないと言うのが、宿に居合わせた人々の判断でした.....
と考えて行くと、自然と、正しい裁判とはどの様なことなのか?、こう問うことになるはず.
こう問えば、正しい裁判とは真実を述べることが基本であるのは誰にでも判ること.では、ヴァランティーヌは、自分から進んで、事実をありのままに述べ、そして判断は皆に任せた、この出来事は一体なんであったのか?.

現実の裁判とは、検事は法律論を振り回し、弁護士は情状酌量を求めて、綺麗事を並べ立てる.
それに対して、
「私は、ありのままを話しただけ.ひどい話だけど、これが真実よ.好きにして」
ヴァランティーヌはこう言ったのですが、まさしく正しい裁判が行われ、無罪の判決が下ったのだと言えると思います.

法律で罪人を裁くのが裁判ではなく、被告人(証人)が真実を述べ、そして、皆で考えるのが正しい裁判である.


書き加えれば、
宿に居合わせた人たちが、ランジュ氏のことを警察に通報するかどうかで議論になりましたが、彼を警察に引き渡すということは、彼を殺人罪で裁判にかけると言うことなのです.つまり、彼を裁判にかけるべきかどうか、皆で議論になりました.

そして、バタラと言う人間は、
出資者に対する詐欺で警察に捕まったにしても、すぐに釈放になると、彼は言いました.
彼にしてみれば、借用書の無い借金は返す必要がなく、神父に化けて得た善意のお金も、当然返すつもりはありません.
女の騙して泣かせても、彼には全く罪悪感はなく、女にしてみれば泣き寝入りするしかない出来事でした.
つまり、バタラは自分で言ったように殺すしかない人間、裁判で裁くことは出来ない人間であったのです.
裁判で裁くことの出来ない悪人を撃ち殺してしまったランジュ氏を、果たして裁判で正しく裁くことが出来るのか?.
出来ないと考えたのが、宿に居合わせた者達の結論であったと、言えるのではないでしょうか.