映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

インディア (ロベルト・ロッセリーニ 1958年 88分 イタリア/フランス)

2012年12月07日 05時21分59秒 | ロベルト・ロッセリーニ
『インディア』 (1958年 88分 イタリア/フランス)
監督  ロベルト・ロッセリーニ
原案  ロベルト・ロッセリーニ
脚本  ロベルト・ロッセリーニ
    ソナリ・センロイ・ダス
    グプタ
    フェレイドウン・ボウェイダ
撮影  アルド・トンティ
音楽  フィリップ・アルチュイ
    アラン・ダニエル

出演
インドの人々
インドの象
インドの虎
インドの猿


インドで撮られた、オムニバスの作品です.
カラーですが、発色があまりよくないのが惜しいです.

自然との調和
インドの入り口ボンベイ、そこには様々な人々が寛容の精神で調和して暮らしている.民族が異なれば、宗教も異なり、言語、文化、風習も異なるのだが.












象使い.
カメラはインドの奥地、象の棲む森の中へ.象の力を借りて林業を営む象使い、その暮らしは、象の自然な暮らしと共にある.象使いの男の恋愛、そして結婚と、象の妊娠を絡めて、人間と自然との調和を描きました.















ダム建設.
インドの大河、ヒマラヤを源にする聖なる流れは、時として洪水を起こし、人々の命を奪う.ダムを造り治水を行うということは、自然との共存、調和を意味するのですが、ある意味では自然に対する征服、それは不調和であるのかもしれません.ダム工事の労務者の家族は、ダムの完成と共に他の土地に移ることになる.妻は慣れ親しんだ土地を離れるのを嫌がり、夫婦喧嘩になりました.













トラと老人.
余す所なく耕された水田地帯.その風景はやはり自然との調和と言ってよいのでしょう.その水田地帯を抜け、カメラはトラの棲む森の中へ.そこに住む村人の生活は自然と共にあり、そして隠居生活の老人の日課は森の中で自然と溶け合うこと.老人の散策する森にトラも棲むのだけど、そのトラは普段は決して人を襲うことはない.
ある日やって来た鉄の鉱床の調査隊、その騒音は森の静寂を奪い、森の調和を破壊した.騒音で多くの動物達が逃げ出し、森の調和が破壊されたから、トラは人間を襲うことになったのですね.









猿のラム.
熱波に倒れた飼い主.独り街に辿り着いたラム.ラム独りだけで群衆の前で芸を観せ小銭を稼ぐのだけど、猿一匹が人間の社会で生きては行けない.そして、人間に育てられたラムは、自然界に戻ろうとしても、それも許されなかった.





科学の進歩と共に開発と称し、自然破壊を進める人間社会.それは、人間の暮らし、その営みも、本来自然の一部である事を忘れ去っている.自然界に戻ろうとしてもできなかったラムの姿は、自分達が自然の一部であることを忘れ去っている人間の姿であり、同時に、その人間が行っている自然破壊は、元の自然を取り戻すことのできない行為である事を、示唆している.

リラの門 - PORTE DES LILAS - (ルネ・クレール 1957年 98分 フランス)

2012年12月07日 03時10分58秒 | ルネ・クレール
リラの門 - PORTE DES LILAS - (1957年 98分 フランス)

監督  ルネ・クレール
原作  ルネ・ファレ
脚本  ルネ・クレール
    ジャン・オーレル
撮影  ロベール・ルフェーヴル
音楽  ジョルジュ・ブラッサンス

出演  ジョルジュ・ブラッサンス
    ピエール・ブラッスール
    ダニー・カレル
    アンリ・ヴィダル
    ガブリエル・フォンタン







ろくでなしの男、ジュジュは、警察に追われる男、ピエロを匿うことになった.
ピエロは、警察に捕まれば死刑を免れない殺人犯であった.
ジュジュの好きだったマリア、けれども彼女はピエロに惹かれて行く.
マリアを騙し、金を奪って南米へ逃亡を図るピエロ.
「金を返せ」
「マリアの父親のためか?」
「マリアのためだ、彼女が知ったら」
それを知ったジュジュは、言い争いの末、ピエロを撃ち殺してしまった.
「ピエロは、金がいらなくなったと言うさ」ジュジュはマリアに金を返すとき、こう言い訳すると言うのだけれど、この嘘に、ピエロを撃ち殺した事実が重くのしかかる.

殺人犯を匿うことは、所詮は馬鹿げた、ろくでもないことであったかもしれない.ピエロは身勝手で迷惑のかたまりに過ぎない存在であった.けれども、人を助けることには、たとえ細やかでも喜びがあったのも確かなことであった.
しかし、その男を撃ち殺したとき、殺されても当然の人間を殺したのだけれど、けれども、その行為によって誰も喜びはしなかった.むしろ、自分の好きなマリアのことを思うとき、マリアに金を返すときの言い訳の言葉を口にするときには、彼女に対して悲しみを与えただけであったのが分ったはず.単に騙され捨てられた時よりも、より深い悲しみを与えることになったに違いない、ジュジュにはこう思われたのではないか.














殺人犯を匿って助けたのだけど、結局は撃ち殺してしまった.
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ルネ・クレールは、人の死が意味を持つ映画はこの作品まで撮りませんでした.なぜなら、人を殺してもなにも良いことはない.単純明瞭な答えが、この作品に描かれて居ると言えます.
アガサ・クリスティ原作の、『そして誰も居なくなった』は例外と言うか、推理小説の映画化です.
この作品の前作の『夜の騎士道』のラストシーンが二つ撮影されていることは、DVDを買われた方はご存じのはず.はっきりしたことは分りませんが、ひょっとすると撮影してから、ルネ・クレールは、映画監督としての自分の一生を台無しにするところであったのに気がついたのかもしれません.
ルネ・クレールは、人としての優しさを生涯大切にして映画を撮り続けた、映画監督でした.


『リラの門』 予告編
https://www.youtube.com/watch?v=7BJFJWrwWS4

映画『肉体の冠』 - CASQUE D'OR - (ジャック・ベッケル 1951年 フランス)

2012年12月07日 00時30分40秒 | ジャック・ベッケル
肉体の冠 - CASQUE D'OR - (1951年 98分 フランス)

監督  ジャック・ベッケル JACQUES BECKER
製作  
脚本  ジャック・ベッケル JACQUES BECKER
    ジャック・コンパネーズ JACQUES COMPANEEZ
撮影  ロベール・ルフェーヴル ROBERT LE FEBVRE
音楽  ジョルジュ・ヴァン・パリス GEORGES VAN PARYS
編集  Marguerite RENOIR

配役  シモーヌ・シニョレ SIMONE SIGNORET
    セルジュ・レジアニ SERGE REGGIANI
    クロード・ドーファン CLAUDE DAUPAIN
    レイモン・ビュシェール RAYMOND BUSSIERES
    ダニエル・マンダイユ DNIEL MENDAILLE
    CASTON MODOT
    PAUL BARGE
    DOMINIQUE DAVRAY
    TRIGNOL
    ODETTE BARENCEY
    PAUL AZAIS
    LOLEH BELLON
    ROLAND LESAFFRE



『悪の掟』
マンダ
悪の道から足を洗い、大工になって堅気の世界で生きていたマンダだったのだけど、悪の世界に生きるマリーに一目惚れしてしまった彼は、好きになった女を自分のものにするために悪の道に戻っていった.
金でけりをつけるのか、それとも、邪魔な相手を殺すのか、彼は邪魔な相手を殺す決闘を選んだのだ.
自分にとって、自分達にとって邪魔な相手を殺すことによって問題の解決を図る、それが悪の世界の掟であった.

マンダは惚れた女を手に入れるために、決闘とは言え、恋敵の男を殺してしまった、正真正銘の悪党であった.
そして、人一人が死んだことを何とも思わない、その結果を当然のこととして受け入れるマリーもまた、悪女であったと言わなければならない.

ルカ
裏社会のボスのこの男、決闘による殺人を警察に密告したダンスホールの店員を、自分達に都合の悪い人間として、子分に命じて殺してしまった.
おそらく、殺人に手を下した子分が警察に捕まっても、秘密を守り通すことが彼らの掟であろうから、ボスのルカは警察に捕まることは無いであろう.
ましてや、女の騙して手籠めにした出来事などは、警察に訴えたにしても、まともな罪に問われることも無さそうである.
ルカは悪の世界のボスでありながら、子分を嘘の情報で警察に密告し、惚れた女を手に入れようとした.その結果、脱走を図ったレイモンは撃たれて命を落とすことになり、マリーはマンダを救おうと、ルカに身を任せてしまった.
この男、表社会で許されないだけでなく、裏社会でも許されない人間であり、なおかつ、他って置けば、また幾人もの殺人を犯しかねない悪党であったと言える.

表社会の視点から
悪の掟では警察へ密告することは許されない.つまり、都合の悪い相手、許されない相手は自分の力で殺す以外に方法のない考え方であり、マンダは悪の掟に従ってルカを撃ち殺す以外に道はなかったのだが.
ルカは子分に殺人を命じる殺人者でありながら、警察署長に賄賂で癒着した悪党だった.表社会では処罰されない殺人者を、マンダは裏社会の掟に従って撃ち殺したのである.

マンダは殺人犯であり、かつ脱獄犯であった.その彼が、警察署に逃げ込んだルカを、署内でピストルを奪って撃ち殺したがために、当然のごとく死刑になったのだが.
死刑とはどの様なことか?.
死刑とは、自分達の社会にとって、許されない人間、都合の悪い人間を殺すことによって問題を解決する行為である.
その行為、死刑が許される行為であるならば、表社会でも許されないルカを殺したマンダは、罪に問われないはずではないのか?.

死刑とは自分達にとって都合の悪い人間を、許されない人間として殺して問題の解決を図る行為である.
それは、悪の掟によって生きる裏社会の人間の行為と、何ら変わることのない行為であって、死刑以外に問題の解決の方法を考えることが出来ないとするならば、その考えも、裏社会の考え方と何ら変わることがないと言える.