ケインズ、ハイエク、シュンペーター

2020-03-12 10:59:00 | 本関係
世間は相変わらずコロナパイセン(©星色ガールズドロップ)のおかげでてんやわんやですが、皆さまいかがお過ごしでせうか。
 
 
さて、自分はというと次の読書会に向けて少しづつシュンペーターの課題図書を読み進めているが、ここいらで彼について思ったことを備忘録も兼ねて徒然なるままに書いてきたい。
 
 
シュンペーターの同時代人(20世紀前半)として有名な経済学者と言えば、ケインズやハイエクが挙げられる。特にケインズは高校でも習うので知っている人も多いだろうが、当時持て囃されたのも彼だった。しかし、20世紀も終わりに近づいてくると、シュンペーターやハイエクが再び注目されることになる(ただし、「その後ケインジアンは完全に放逐された」というような単純な話ではない)。その背景とは何だったのだろうか?
 
 
ケインズが時の人になったのは、世界恐慌に伴う混乱や共産主義の隆盛が背景にある。戦争特需とヨーロッパの没落で不動の地位を築いたアメリカは、古典派経済学的な自由放任主義を掲げており、結果としてはDawes Planなどを経てヨーロッパが戦後復興を果たし生産力を回復したにもかかわらず、野放図な大量生産をやめることができずに世界恐慌へと突き進んでいった。
 
 
その対策として提示されたのがニューディール政策であり、これは端的に言えば政府が経済に介入してそれをコントロールするという仕組みであったわけだが、その数年後にケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』が発刊され、時代の要請に応えるだけでなく、ニューディールにお墨付きを与えるものとして持て囃されたわけである。いわゆる「修正資本主義」という仕組みの理論化と定着は、こうしてなされたと言える。かかる状況において、それと逆行するようなハイエクの自由至上主義は注目されるわけもなかったし、またブロック経済や統制経済で生き残りに汲々とする状況下でシュンペーターのイノベーション理論(創造的破壊)に光が当たることもまたなかったのである。人々は、恐慌から脱出するための具体的な処方箋を求めていた(それが経済政策であれ領土拡張であれ)。古典派経済学の「いずれは需要と供給が均衡するのだ」といった理論の正しさに期待して待つより、今日を生きるためのパンとその原資が必要だったのである。
 
 
ではなぜ、シュンペーターやハイエクは再び注目を集めるようになったのだろうか?その理由を端的に言えば、政府が経済に介入(=供給をコントロール)しつつ福祉で国民の生活を支え(=需要をコントロール)、もって安定した社会・国家運営を維持するという福祉国家(=「大きな政府」)のあり方が、1970年代に限界を迎えたからである。以下、一例として(ケインズがいたのでもあるし)イギリスを取り上げつつ簡単に描写してみたい。
 
 
その要因は様々あるのだが、一つには第二次大戦後から1960年代にかけての植民地独立が挙げられる。そも福祉国家=大きな政府はその名の通り福祉に多くの費用を費やし、また(雇用創出による国民生活の安定→需要創出という目的から)公共事業も頻繁に行うわけで、つまりは多額の財源が必要となるのだが、それを可能にした基盤の一つは植民地を媒介にした収奪であった(話すと長くなるので詳細は省くが、ベンガル支配はその典型だろう)。
 
 
逆に言えば、植民地が減れば原資も減るので自国で賄わなければならない割合が増えていくわけだが、イギリスだけで見ても戦後にインド独立、ガーナ独立という具合で次々に植民地が独立したり、スエズ撤兵などの形で国外の「収入源」が無くなったりと、かつてのパクスブリタニカは見る影もない状態になっていった(不況に陥ったイギリスが1967年にポンド切り下げを行ったことも想起したい。ただし、念のために付言しておけば、「植民地さえあれば経済的繁栄をそのまま維持できた」と見るのは誤りで、二次大戦で大きな打撃を受けたイギリスは、それにもかかわらず冷戦体制の中でNATOやSEATOなどにも加盟しており、もはやかつての世界帝国を維持する体力を持っていなかったため、そのツケが回ってきた結果としての不況とポンド切り下げであった)。
 
 
こうした状態の中で、ほぼ横ばいの成長しかしてなかったイギリスは、1970年代にはドルショックや2回に渡るオイルショックで他国と同様に大きな打撃を受ける(こうした状況に日本やドイツといった敗戦国の経済的台頭が相まって、第一次オイルショックが起こった1973年にはECへ加盟することとなった・・・わけなので、イギリスのEC加盟には、まあ当然と言えば当然だが、戦略的背景が多分にあり、それゆえユーロが採用された後もポンドの使用を固持したことにもつながるし、ブレグジットの一因でもある)。
 
 
こうした状況を踏まえて、1980年代には福祉国家からの脱却、すなわち「小さな政府」が標榜されるようになる。その代表的人物が、イギリスではサッチャーであり(「ゆりかごから墓場まで」って何それ美味いの?という方針を)、彼女はシュンペーターに大きな影響を受けたとされる。なお、同時代にアメリカのレーガンがニューディール的政策からの脱却を企図し、レーガノミクスを打ち出したこともよく知られているところである。この時点で、ケインズ主義的な経済観は説得力を失いつつあったことが見て取れるだろう(そして、シュンペーターが大きな影響を受けたワルラスなどを代表とする「新古典派経済学」もまた、ここで台頭することになる)。
 
 
ところで、このような状況と並行して成熟社会(ポストモダン・後期近代)が到来しようとしていた。すなわち、産業革命から始まる大量生産の極北として20世紀初頭にフォード式が現れたわけだが、1970年代には車や冷蔵庫、テレビ、洗濯機(最後の三つは日本で「三種の神器」とも呼ばれた)といったものがすでにある程度行き渡った状況となり、それらはcommodityと化してしまった。そういうわけで、もはや既存のものを大量生産しても(すでに持っているから別に買い替えなくてよいという理由で)消費が頭打ちになってしまったのである(まあそういうわけで、適度に壊れないと企業も困るということで「ソニータイマー」なる俗語も出てくるわけだが)。
 
 
要するに、1980年代当時、既存の成長モデルは限界を迎え、新たなモデルが必要とされていた(いわゆるポストフォード社会の到来)。折しも、最初は軍需産業であったコンピューターが学術の世界に広がり始め、1970年代にはApple、1980年代初頭にはマイクロソフトという具合にコンピューターがpersonal computerという形で一般の世界へ広がる契機が生まれたのもこの時期であった(そして、1990年代のカリフォルニアンイデオロギーという流れだ)。なお、このような状況下ではイノベーション(すわなちシュンペーターの理論)の重要性が強く意識されるのは当然のことであったし、また先のカリフォルニアンイデオロギーのようにIT産業には政府の介入を否定するような風土があったため、ハイエクの自由至上主義にスポットが当たるのも至極もっともなことであったと言えよう。
 
 
というものがシュンペーター(およびハイエク)が再度注目を浴びるようになった理由なわけだが、では今後(未来)を考える上で、シュンペーターの理論にはどのような示唆が含まれているだろうか?次回はこういった「将来像」と「日本」という二つの視点で書いていくことにしたい。

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