個人的嗜好なら勝手にすればいいし、一般的義務と主張するなら論拠を示すべし・・・て話

2023-11-26 11:59:44 | 生活

昨日書いたのは、成熟社会になったことによる価値観の多様化で、日本語や日本的コミュニケーションが機能不全に陥る必然性についてだった。今回はその一つとして、すでに何度か書いた「男性は女性に奢るべきか」という議論に触れてみたい。

 

ところで、前回の日本語と英語の論理構造の話に寄せて書くなら、まず主観を述べただけでは相手を納得させることはできない、ということだ。こう言うとかなり抽象的に聞こえるが、例えばI am glad(SVCの主観表現)だけではよくわからないので、そこにto see you again.が続いて感情(主観)の理由を説明するとか、あるいはYou must be crazy(SVCかつ助動詞を用いた主観表現)ではただの決めつけなので、そこに判断の理由としてto say such a cruel thing to her.とかを続ける感じだ(まあ高校の頃にはこんなことやりましたなあ)。

 

で、なぜこうしないと特に公の場で発言するのが厳しくなるかと言うと、価値観が多様化していることで「わかり合い」が通用しないため、具体的な根拠の提示が必要とされるからだ(お気持ち表明して察してくれると思うのは甘えってこと)。そして、論拠を提示して自説の一般的妥当性を主張するのであれば、当然それは反証可能性にもさらされている、ということでもある。例えば、「男性は女性に奢るべきだと多くの女性は思っている」と主張したならば、「統計データからすると、そう考えている女性は全体の1/4しかいないので論として不成立だ」のように反駁がなされる、といった具合に(なお、こういう反論をもって「言論弾圧」などと勘違いする向きがあるのは嘆かわしいことである)。

 

ただし気を付けたいのは、こういう話から想定する人も多いだろう「論破することこそ正義」みたいな発想は、端的に間違っているということだ。例えばアメリカ社会では、特にパーソナルな場面での宗教的質問は忌避される傾向がある。その理由の一つは、極めてデリケートな信仰の領域において主張と反駁という行為をくり返していくと、「戦争」にならざるをえないからだ(南北戦争というアメリカ最大の死者を出した内戦を経て、プラグマティズムという思考態度が出てきたことにも注意を喚起したい)。つまり、共生の作法(知恵)として、「あえて触れない」という行為も日常的に行われている。この点、「何でもかんでも論破」という発想がいかに子どもじみているかは容易に理解されるところだろう(何でもかんでも言語化して持論の正しさを戦わせればええってもんやない、て話)。

 

さて、以上のような前提に立てば、「男性は女性に奢るべきか」という議論の土台は、例えば次のように整理することができる。

1.女性である私は奢ってくれるような男性と付き合いたいと思っている→ご自由にどうぞ。

2.男性である自分は女性に奢るつもりはない→ご自由にどうぞ。

3.男は女に奢るべきである→一般論として述べているので、論拠が必要。当然反証の提示はありえる。

ミルではないが、「他者に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という自由の発想に立脚すると、1や2を否定する理由はない。もしかするとそれが行為者に不利益を生じさせるかもしれないが、それはまさに自己責任と言えるだろう(注)。

 

ここまでが、議論を始める前の前提である。繰り返すが、個人がどういう嗜好の人間を好むのかは(愚行権という観点でも)勝手にすればよろしいし、その結果を引き受けるのはその人である。だから、「私は男性に奢られると借りを作るみたいで嫌なので、割り勘にすることにしている」というのも自由だし、「私は女性に対する感謝の念を込めてなるだけ奢るようにしている」というのも自由である。ただし、それを個人の趣味嗜好ではなく一般的規範であると主張した時に、論証責任が生じますよ、て話なのだ。

 

次回はそれを踏まえて、「男性は女性に奢るべきか」という主張が一般的に成り立つかを考えてみよう。

 

 

(注)

そのような事態を避けたいのであれば、事前に相手と合意形成をする他ない、ということになる(まあこの手の話題で相手と「熟議」ってのもあまり現実的ではないので、上手くやる必要があるが)。例えばすでに家族を形成しているとか、すでにある程度の期間の付き合いがある友人・パートナーであるといった場合はともかく、そうでなければ事前にその日の支払いをどうするかを決めておくのがよい、ということになるだろう。

 

少し話を広げると、例えばこれまでの日本は、著作物を依頼する際にその報酬を明確化せずに依頼してきたと聞くが、そういった契約形態はブラックボックス化に直結しやすかった。もちろん、そういう折衝の煩わしさがスキップできることのメリットが無かったと言うつもりはない。しかしながら、こういった閉鎖性や暗黙の了解の弊害は、ジャニーズ問題や大手マスメディアの隠蔽構造、宝塚やビッグモーターの不祥事などすでに色々な角度で明るみになってきている今、広く認識・問題視されてきている。

 

よって、関係性が十二分に構築されていない間柄であったり、まして会社などオフィシャルな関係性での付き合いの場合は、事前の合意形成・合意確認が推奨されるようになっていくのではないか(とはいえ、煩わしさからそれをスキップすることを見越して、色々と理由をつけてたかりに来るママ友などが根絶することはもちろんないだろうが)。

 

・・・とここまで書いて多くの人が「そんな面倒くさいことやっていられるか!」と思ったんじゃないだろうか。全くその通りだと私も思う。共通前提が崩壊していけば、確かにこういうやり方が「あるべきもの」とされていくだろうけれども、実際その折衝にコストをかけるぐらいなら、もう始めから一人で情報を調べ、好きな所に行き、好きなものを楽しんだ方が楽である、という結論になるだろう(まさにコスパが悪い、という話だ)。

 

私がよく記述するAIの「進化」と人間の「劣化」というのは、単純に人間の趣味嗜好の問題ではなく、こういった価値観の多様化と、それにまつわる折衝の必要性と高難度化、より正確に言えばそのようなコミュニケーション作法がこれまでの日本のそれと全く異なるため、非常にパラダイムシフトが難しいがゆえに生じるのである、と述べておきたい。


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