想像力の欠如:「ひぐらし」主人公の評価より

2005-12-13 13:33:47 | ゲームよろず
前原圭一は「ひぐらしのなく頃に」推理編における主人公。ここでは、彼に対する評価を見ることで「感情移入」という考え方の虚偽性を提示したいと思う。今でこそ、圭一に対して肯定的な評価がかなり増えているが、目明し以前くらいまではヒドイ評価も度々されたものだった(レビューに関してはあまり見ていないが、07th Expansionのひぐらし推理スレからそれはうかがえる)。曰く「自己中心的」「へたれ」(どっちもダメ主人公を指すのによく使われる言葉だ)などなど。さて、この評価は的を射たものか不当なものか…というところで、圭一の立場や置かれている状況を考えなければならない。

1.彼は一ヶ月前に引っ越してきたばかりである。
2.「普通」の中学(高校?)生である。
3.「仲間」という意識にこだわりを持っている
4.昨日まで会っていた人間の異常な死
5.「村ぐるみ」の異常な事件
6.雛見沢の閉鎖性
7.加速度的に異常になっていく周囲
8.雛見沢の政治力

多分まだまだあるが、今はこれだけ挙げておこう。ちなみにこれは推理編全てに共通する要素で、個別の話に絞ればもっと引き出せる。さて、これだけの限定要因が働いている中で、圭一に反感を覚える人間はあの異常な環境と事件をどう生き抜けたというのだろうか?彼らの想像力に多少期待するなら、結果は同じように殺されるか、逃亡を図って行き倒れであることが容易に理解されるだろう。仮に雛見沢から逃げおおせたとしよう。そしてそれによって警察へ保護を求めるなりできたとしよう。だがそれでも、事件が解決することはない。既に初編の「鬼隠し編」から提示される通り、雛見沢の支配層は外部に対して強い政治力を持っているからだ。要するに、圭一が訴え出たところで証拠はあがらず、結果「一中学生の妄想」で片付けられるのがオチだ[ちなみに圭一が逃げないのは、「仲間」というのに対するこだわりも関係している]。

ここまで言えば、もう明らかだろう。圭一は「へたれ」では決してない。ついでに言っておけば彼は家族に危害が及ぶのを恐れており、「自己中心的」という評価も非常に根拠の弱いものと言えるだろう。ではなぜそういった評価が出てくるのか?思うに、全知全能の主人公像への執着と、自己の考え方・状況を安易に主人公へ投影する思考様式にその原因は求められるのではないか。前者について説明すると、主人公は、全てを見通せて困難を乗り越え、事態をハッピーエンドで終わらせることのできる力を持った人間であるorそうでなければならないという思い込みである[英雄の創生と類似]。後者について言えば、相手を束縛する状況や性格を考えず、ひたすら自分の基準を押し付けそれに符合するかどうかしか考えられない荒廃したものの見方である。これはまさに、(哲学などの)結論のみを抽出して自分の考え方に抵触しないか判断するという行為に等しい(「思想理解における文脈の重要性」参照)。

主人公に全知全能を求める姿勢は、ひぐらしの表現方法を全く理解していないという意味で論外。限界を持った人間があがく物語であると同時に、そこに入ってくるバイアス等を慎重に判断しながら推理していくのがひぐらしの真骨頂であるのだから。ひぐらしの「感情移入」云々については、相手の状況などを(全くorほとんど)考えないという意味で、「想像力の欠如」と結論づけることができるだろう[これに対する挑戦が目明し編の園崎詩音であったことに注意を喚起したい]。


※これは「君が望む永遠」の鳴海孝之にも当てはまるが、それについては別の機会に述べたい。

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