興味があるのはゲームよりもゲーム盤の成り立ち

2019-01-16 12:44:40 | 感想など

どうも旅行の話を続けるテンションにならない(ゆえに準備も整わない)ので、「沖縄complex」に関連することでも書こうと思う(ある意味では、次回のドイツの記事と合わせて中間的な話の続きとも言える)。

 

一か月ほど前に友人と会っていた時、沖縄以外で将棋の件も結構話すことになった。その友人は結構やり込んでおり、当日は会社での将棋同好会の集まりに男性・女性それぞれのプロが来て対局したり、時間制限を設けて詰将棋をするといったことをやったらしい(もちろん、ハンデをつけてである)。

 

俺は基本的なルールを知っているくらいで対局はしないし番組を見たりもしないが、ちょうど『アオアシ』というサッカー漫画の作者と棋士の対談を見ておもしれーなーと思っていたところだったので、色々話を聞いてみることにした(というわけであたしゃ全然詳しくないので、有用な情報が知りたい方は期待せんといてくださいw)。ちなみに、さっき書いたプロの「男性」は今度竜王戦でハブ師匠と戦うとかって話だったんで、俺が対談を読んだ広瀬章人8段その人なんじゃねー?と気づいたのは家に帰ってからだった(・∀・)

 

・竜王戦とか以外での金の稼ぎ方はどうなってんのかな?
なるほど、こういうイベントに参加してお金を稼ぐのか。そう言えばスキー選手はオリンピックよりスキー教室の方が儲かる、みてーな話があったな。

 

・将棋の歴史性
かなり歴史のある遊戯なので、ずっと今の形だったわけじゃないらしい(これは囲碁とか麻雀も同じ)。というか大将棋の駒とか見ると、「なんでこれを駒にしようと思ったの?」と別の興味が湧くようなものもあり、なかなかにおもしろい。「醉象」なんて「チャンドラグプタ!?ハンニバル!??」と謎の興奮をしてしまったことをここに告白いたします(・∀・)

 

・囲碁の方がハイエンドな印象がある
これは俺の思い込みなのか、それとも背景があるのか?まあ思い付きで言うと、碁の方が碁石含めて高い印象があり、それが原因なのか?ちなみに囲碁は父と祖父がよくやっていたが、今に至るまで俺は興味を持っていませんよと(・∀・)

 

・人工知能と直感
人工知能が人間の王者を打ち負かしたことが、AI時代の到来を告げるメルクマールの一つとして語られた。ということもあり(?)、藤井聡太7段があれだけ強いのはAIとの対局を数多くこなし、圧倒的な経験を元にしているから強いのだ、なんて話をどっかで読んだことがある(まあバキの独闘みてーなもんかw)。ただ、友人によると、詰将棋でもかなりの訓練をつんできたらしい。そう言えば、広瀬8段の対談では「どこまでが理屈で説明できるか?」・「理屈での説明が必要ないレベル」・「最後の最後は直感」といった話が出てきたが、これから人工知能が政治的判断に組み込まれた時に、その合理的説明がどうやって可能なのか、そしてそれは伝わるのか、といった問題がやはり大きいよな、と思ってみたり。というのも、たとえば低確率ないし予測不能と思われていた自然災害が起きた瞬間に、バロメーターは大きく変化することは避けられない(東日本大震災が最もわかりやすい事例だろう)。すると「今日の合理も明日の非合理か?」みたいなことを考えていると、そしてそんな思考&決定を各国人工知能と政府がやっていると、実は千日手になってしまうんではないか、ということを思ってみたり(まあこれは前にも書いたが)。

 

・見えているものが違う

「自分たち素人が見通せるのはせいぜい二手先、三手先程度だけど、プロは数十手先まで考えながら打っている」と友人が言っていた。まさしくその通りで、俺たちには見えてないものが見えている(もしくは見ている)状態で思考・行動してるんだよね。これはサッカーのキラーパスとかでも思うことで、俯瞰視点ならともかく、選手の目線で一体どうやってそこが空いてるとか見通せるのかと不思議に感じることはよくある(もちろん、そこに的確なパスを出せる技術力が重要なことは言うまでもない)。まあこれは優れた司令官も同じだよな。相手の状況を操作する(選択肢を狭める)ことでこちらの意のままに動くようコントロールしたり、あるいはそもそも戦術的な勝利に固執せず、時には戦略的な勝利によって局地的に敗北してもそれを大きな問題のないものにしてしまうとか・・・そうやって考えると、人心掌握とか会社経営にもつながるって話か。

 

 

・・・といったようなことを話したり、思ったりしていた。そこまで興味がないので自分でやろうとは思わないが、だからこそ他人がなぜそれに興味を持つのかがおもしろい、というヤツだ(これはゴルフなんかも同じ)。一応書いておくと、これは別に嫌味じゃない。それで嫌味になるのなら、俺の「あえて何も調べずに、特に目的もなく名所でもないところをうろうろする」などはさしずめ既知外沙汰ってところか(まあこれですら、「合理性という名の軛から解放されることでの眩暈を求める」と理由が説明できてしまうのだが)w

 

こういう風に、自分が自分というもののレンジを広げるきっかけを意識的・無意識的に拡大しておいた方が、結果的に楽しめるものが増えて徳だと俺は思う。そこからすでに持っていた知識を別の方向から掘り下げられる可能性があるし、またそれを嗜む人と打ち解けるツールとしても使える(別に将棋や囲碁を長時間勉強するわけじゃなし、対局に時間を割くわけでもないから、コスパも決して悪くない)。

 

ちなみに、これをもう少し違う側面で説明すると、俺が興味があるのはゲームそのものよりむしろ、ゲーム盤とその成り立ちである、と言い換えることもできるだろう(要はメタ志向が強い)。思えばこのブログの最初期には「オタクを批判しているのか?」みたいなコメントをもらったことがあったが、「オタク」云々ではなく、また「批判」でもなく、単純に歴史・宗教・風俗・作品・嗜好などあらゆるものについて、それを砂上の楼閣(もう少し穏当に言えば、永久的でも交換不可能でもない、ただの歴史的構造物)だと思っていてるだけのことだ。もちろん、人間社会そのものを含めてね。

 

とまあそういうわけで、将棋や囲碁、麻雀の歴史性を知ろうとする動機づけを得たので、今後これもまた探求の材料にして楽しむ材料を増やしていきたいと思う次第である。

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