汝がクソアニメを見る時、汝自身もまたクソアニメに見返されているのである

2018-03-03 12:30:27 | ポプテピピック

イメージ画像は先見せしながら、次回予告は毎回ネタを全然関係ない話を流す。しかも、次回は今回と同じ配役にならないことはもうわかっている。以上により、見る人が見ればすでに全て計算ずくであることが明示されているとわかる一方(そもそも一週間後の配役すら決まっていないなど少し考えればわかる話ではあるのだが)、そうでない人にはあたかもあたかも参与(=自己の意見反映)の余地があるように思わせ、大量の「次回声優希望」コメントが流れるなどのコミットメントが促される。

 

これが「ポプテピピック」と呼ばれる稀代のクソアニが熱狂をもって受け入れられる要因の一つである。つまり、ある人はメタ視点を持ちながらシニカルに、またある人はメタ視点を持ちながらネタで、またある人は背景を読もうとせずベタに、という形でアイロニカルな没入と率直な熱狂が渾然一体となって、しかも相互作用しながら作品を支えている・・・

 

このようなあり方にまさしく今日的物語消費の構造が見て取れるのは次の理由による。すなわち、内容自体が旧い時代/海外を問わず様々なデータベースのごった煮(まさにデータベース消費!)であること、またポプ子とピピ美というキャラクター自体の消費、そして二人の関係性妄想を促す諸々の演出を含め、この作品は(日本に限らない)市場のニーズを踏まえた作りをしているがゆえに、それはすなわち我々の需要環境や想像力のあり方そのものを映し出しているのである。

 

トネガワや金田一少年の犯人視点、ウシジマくんのサブキャラクターを軸にした物語といったスピンオフがなぜ今あちこちで受けているのか?これはリオタールが、あるいは東浩紀が言っていた大きな物語の凋落と無数の小さな物語の消費という構造が、非常に明確な形で現出したものと言えるのではないだろうか(それを突き抜けるには、「魔法少女まどか☆マギガ」レベルの壮大で圧倒的なmythが必要とされる)?

 

このアニメをクソだと批判したり否定するのはとても容易であるように思える。しかしながら、今述べたような需要環境を考慮しなければ、その反応はただの「感想文」の域を出ない。ベンヤミンではないが、現代の砕け散った瓦礫の中にきら星を見つけるか、それとも古びたruinに執着し続けるか。少なくとも荒野の前で嘆いているだけでは無意味なのは確かだろう。


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