澪尽し編~■■救済に関する批判~

2008-08-06 11:37:22 | ひぐらし
澪尽し編 終:必然性なき■■の救い」及び「必然性なき救い 続」において、悟史には救われる必然性がなく、にもかかわらず救われてしまったことで生じる問題について書いた。ここでは、理解の補助線として覚書を掲載して締めくくりとしたい。まずは、議論をよりわかりやすくするため三つ補足をしておこう。


<罪滅し編のエンディング>
屋根の上での大立ち回りを終えた後、いかにも皆が救われたような形でスタッフロールまで流れる。これを見た時、「レナは鉄平・リナを殺したのに、救われてもいいんだろうか?崇殺しではああいうこと言ってたけど、結局悪人は殺していいってことなのかな?」とかすかに違和感を覚えたのが、最終的にTIPS「悪魔の脚本」を見て(やはり罪を犯したままでは救われないことに)納得したのであった。


<「許し」という観点>
人によっては、罪滅し編における圭一への梨花の「許し」が悟史にも適用されてもいいのでは?と主張するかもしれない。ひぐらしが「罪ー罰」ではなく「許し」の物語だ、というわけである。鷹野の扱いなどを考慮に入れれば確かに一理あるが、それをもって悟史も同様に「許さ」れるべきと考えるのは論理の飛躍がある。ここで、圭一がどのようにして「許さ」れたかを思い出してほしい。それは自分の罪に気付いたからではあるが、その方法は内省によってではなく、他の世界の記憶(?)を思い出すという「奇跡」によってであった。つまり、圭一が許されたのは、単に自分の罪を認めたというレベルのものではなく、常人の行き着けない境地にまで到った上での懺悔だったからこそ、梨花は心を動かされたし、また圭一を「許し」もしたのだ。このように、ひぐらしにおいては、「許し」でさえもそこに強い根拠・必然性が必要とされているのである。とするならば、「罪ー罰」ではなく「許し」という観点で見たとしても、やはり悟史の救済には必然性がない、と言えるだろう。


<悟史に救いはないのか>
本文を読めば明らかだとは思うが、私は「悟史に救いはない」と主張しているわけではない。私の主張は、もし作中で悟史を救いたいのなら、同じく作中で悟史が救われるべき必然性を描き出すしかないということであり、それをしないのなら、少なくともゲーム(鬼隠し編~ひぐらし礼)の中で救うべきではないのだ(以前述べたように、作品は一つの切り取られた世界である)。悟史を二次創作の中で色々な必然性を与えた上で救いたいと言うのなら好きにすればいい。たがしかし、作中で救いの必然性が描かれていない以上、作中では救うべきではないのである。


…以下が覚書となるが、ケータイにメモった順になっているので内容が飛び飛びになっているので注意してもらいたい。


(以下 覚書)
ハッピーエンドのためなら、人を殺すのは最悪という主張すらねじ曲げるのか、と思い萎える。「救われることが大事」なら、鉄平殺しは肯定されるはず(※)。沙都子の罪を消すあれがとって付けたように見えるのは、なるほど入江視点による祭編を先に見たからだろう[=バイアス]。つまり、自分達であれだけ熱心に、あるいは強硬に主張したことでさえ、ハッピーエンドの[以下欠落部分だが、要は主張よりも救いという結果を重視した、ということを書こうとしたと推測される] 一応羽入が罪を贖った鷹野に対し、悟史にはいかなるロジックも適応されてないように思える。プレイヤーの望んだ通りにならない、というのならわかる[プレイヤーの願望が満たされないだけ。展開の必然性との相克]。しかし、[崇殺し編から続けている]自分の主張をねじ曲げているのだから言い逃れのしようがない。


殺人が絶対悪ではないのなら、他に沙都子を救いようのない崇殺し編における鉄平の殺害は肯定されるのではないか、という主旨のことが書きたかったのだが、不適切な内容だったため削除している。ちなみに、沙都子を救う方法としては、多少強引にでも鉄平を排除し、沙都子に注射をすればOK(=鉄平がまだいるという幻覚の回避)ということも考えられるが、澪尽しでは救出された沙都子が虚ろなまま元に戻らない様が描写されており、そんな単純な問題ではないことが示されている。これによって、崇殺し編の圭一による鉄平殺しはますます必然的なものになる。


(其の2)
しかも主張の内容は、プレイヤーの願望に流されたというよりもむしろ、多くのプレイヤーの予想を裏切るものであったと思われる(惨劇の回避方法が他に思いつかないという点でもだ)。主張が万人に受け入れられないなんて当たり前で、それを気にする必要はない(※2)。しかし最後の最後で自ら自己否定するとは何事か。直前まで殺さないように奔走し、見事それを果たした。何としても殺人を回避しようとする姿勢がうかがえるが、それはみお尽くしにも同じ論理が生きていることを暗示している。その最後がアレ?結局ハッピーエンドなら何でもいいのね。もういいです。

※2
殺人の回避にこだわるがゆえに皆殺し編では団結イベントが描かれたが、これに反感を持つ人間もいたと思われる。ただ、プレイヤーの願望・嗜好と物語の必然性やテーマが一致しないのは別段不思議ではなく、そのこと自体を問題視する必要は無い。大事なのはテーマと、その描き方だ。その部分を譲らずに筋を通したという点であの団結イベントは評価している。そしてまた、悟史の救済はそれと逆の性格を持っているがゆえに批判しているのだ。


(其の3)
祭編で救われない(未だ病床にいる)姿を描いたのだから、[それを補完する内容として悟史の救済を描いても]いいじゃないか、と言う人がいるかもしれない。確かに一理ある(※3)。[というか]もしそれがなければ、俺の批判はこの程度で収まらなかったかもしれない。しかし一方で、悟史が救われうることを作者の側が示してしまった事実に変わりはない(そこに、羽入による贖罪や事故による転換といった許しの必然性はあるのだろうか?)。その言わばテーマの自己否定が、[カケラ遊びをプレイして]推理・疑い・信頼の構図を把握するようになったにもかかわらず、ひぐらしの評価が大して変化しなかった最大の要因である。作品が提示する罪と罰の構造に反する上に、許しの必然性がない。

※3
この意見は、「悟史の救済は、必ず行き着くべき真理ではなく、可能性の一つに過ぎないのだから、そんなに目くじらを立てなくてもいいんじゃないか」という風に読める。つまりパラレルワールドという性質を生かして補完的なエンディングにしているのだろうから、それを否定するのは…というわけだ。なるほど演出(の可能性)と言う観点では、それなりの必然性と効果があることを否定はしない。しかしながら、その演出は崇殺し~祭囃しを通してあれほど拘ったテーマをも捻じ曲げるほどの価値があるのか私には疑問だ。


(其の4)
[澪尽し編が]殺しの回避と罪の解消に徹底してこだわればこだわるほど、悟史の罪はますます重いものとなり、救われる必然性がそれだけ必要になるのである(でなければ「結局救われれば何でもいい」が結論になる)。[もしかすると、中には]殺人してたら何でもダメなのではなく、殺人したら「幸せになれないから」ダメ。つまり幸せになれるんなら殺人OKという強引な解釈をする人がいるかもしれんが、管見のかぎり、その根拠になる記述はない。[いやむしろ、そう考えた場合]沙都子の記述は変。事故だと強調するのは、殺人というものを罪として強く意識しているに他ならないからだ。

※4
これは非常に大事なところ。作者たちは気付いていないかもしれないが、殺人の忌避にこだわればこだわるほど、悟史の罪はますます大きくなり、救いの必然性がますます必要になるという構造がある。このように、悟史の救いに必然性がないという批判は、単なる感覚的・感情的なものではなく、作品の描かれ方に基づいているのである。


以上。

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