作品と「説明不足」:切り取り方について

2007-05-23 16:44:04 | レビュー系
(はじめに)
まずは簡単に前回の補足をしておく。作品、特に物語と向き合う場合、一般に人はわかりやすさを求めるものだが、それゆえ作中の人物は統一的なものとされるため、その範囲を逸脱した行為や思考には何らかの説明が必要とされる。しかし現実において、人の精神というものはそのように統一的なものではありえない(過去ログ「自己の統一性という欺瞞」を参照)。私が前にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や夏目漱石の「こころ」を取り上げたのは、そういった論理的に説明可能な分析というものが及ばぬ領域(すなわち人間の精神の有り様)を両作品が扱っているからである。もちろん、以上のような言には反論があるであろう。すなわち、「それを読者にわかりやすく提示するのが作者の使命なのではないか」と。その意見の一理あることは認めるが、私が強調したいのは「問題は切り取り方にある」ということなのだ。つまり両作品は、人の精神や行動の非合理性をあえてテーマにすることで、「カラマーゾフの兄弟」は裁判という論証形式において人は人を裁けるのか、そして宗教を論理的・合理的に割り切ってしまうことができるのか、と読者に問いかけているし、「こころ」は論理的・合理的に分析しようとすればするほど人間の心の闇がむしろ広がっていく様を読者に体験させ、人間の心や行動がいかに不可思議なもので、それゆえどれほど他人というものが理解しがたい存在であるかを我々の心に刻み込むのである。



(本文)
前回は作品に対する「説明不足」という評価について述べたが、要は作者が何を主張したいのか、それをどのように表現しているのかという視点が必要なのである。作品とは作者の意図に基づいて切り取られたものであり、逆にそうでなければ単なる説明の連鎖ないしは継ぎはぎであり、垂れ流しである(※)。この根源的な事実を理解することなく「説明不足」の言葉をふりかざすなら、それは批判ではなく単に知りたいという願望と言うべきである(※2)。


作品が切り取られたるものであることについては、写真が好例となる。もちろん景色全体を写したものもあるのだが、景色の一部を切り取った方がかえって印象的になる例を我々は数多く知っている。我々はものを見るとき焦点を定めたり無意識に調節を行っているのだが、そうやって生まれた視野、あるいは「世界」を客観的に示してくれるがゆえに、そのような写真は印象に残るわけである。言い換えれば、我々はその切り取り方に感嘆するのである。


これについて個人的な経験を書くと、ありふれた景色が制限を加えられることでかえって強く印象に残ったということが何度もある。例えば通り慣れた道をどこかの店の中から見ると(つまり店のドアによって世界が切り取られると)、始めてその世界を見たかのように強く心惹かれたことが何度もあったし、新目白通りから早大中央図書館傍の坂を見やると、単なる東京三菱銀行の建物がまるでそびえ立つ研究所のように見えたということもあった(近くで見ると全然大したことはないのだが…)。


いやもっと言えば、自分の住んでいる部屋から一階上って景色を見るだけで、ありふれた景色は突如として新しい側面を見せるものである(歩道橋から眺める景色などもまた然り)。これは人間の(物理的・精神的)視野の狭さを雄弁に物語っているが、作品とはそういう視点の一つを採用し、精錬したものに他ならないと言える(手を加えないという手法もあるが)。ゆえに作中の説明の分量などについて論じたいなら、加えるべきその説明が作品にとって、視点にとって必要なのか、加えた方がよりよくなるのかをまず考えなければならない。語られない部分に興味を持ったり想像したりするのは読者の自由だが、それと作品の説明方法・分量が適切かという問題を同一視すべきではないと言えるだろう。



もっとも、作品が全て作者の計算の上に成り立っていると考えるのもまた適切とは言えない。

※2
なお、筒井康隆の「寝る方法」(『ジャズ大名』収録)のように、あえて無駄に説明的な内容にするというのも一つの手法である。
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