前回の「澪尽し編 終」において、分量の関係から触れられなかったものを書いておく。
○原作とPS2版(「祭」「カケラ遊び」)の関係
前回の記事を見て、ひぐらしそのものではなく、原作者が監修しか行っていないPS2版がダメなのだと考えたり、あるいはそれによって原作そのものを擁護する人がいるかもしれない。もちろん、憑落し編の展開のひどさなどは、演出的効果を考慮に入れても、同覚書で指摘したように明らかだし、また澪尽し編でやたらにドモったり、魅音を引き立てるためか詩音がやたらに頭の悪いキャラになっていたりと、違和感の多いというか批判すべき部分は少なくない。では、やはりPS2版を切り離して評価すべきなのか?電撃オンラインに掲載されたスタッフ座談会の内容を見てもらいたい(強調は筆者による)。
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叶:まずタイトルについては漢字は違うんですが“澪標(みおつくし)”っていう言葉があるんです。船が港に到着するときの印という意味で、つまりゴールというイメージですよね。それと『万葉集』なんかにもあるんですけど“みおつくし”=“身を尽くす”という意味にもかけています。要するに誰かのためになにかをするという、思いやりみたいなものも示してるわけです。その2つの意味を兼ねてタイトルを決めました。内容については……さすがにほとんど話せませんが、『祭囃し編』のコンセプトを中心にしつつ、一番打ち合わせを重ねたシナリオなので、大長編の締めくくりとして、うまくまとまってると思います。
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多少の誇張があるにしても、打ち合わせをしたのは当然だろうし、また悟史が救われるエンディングにするのを原作者が確認(+許可?)したのも間違いないだろう。とすれば、悟史の救済が物語的にアリだと原作者自身も認めているわけであり、(PS2版の問題点を全て原作者に帰すべきでないのは当然としても)澪尽し編での悟史の救済をたとえばPS2版の「暴走」であるかのように解釈して原作と切り離してしまうのは誤りだと言える(むしろ、そのような行為を自覚して「信仰」から自由になるべきだ)。
○澪尽しと祭囃しの関係
両者はいわゆるパラレルワールドとされているが、単に平行した話というわけではなく、「カケラ遊び」と原作(祭囃し編)のジャケットは私服のレナが同じく手を広げており、共通性を持たせようという意図が見受けられる(まあ上のインタビューからしても当然か)。また、単なるアングルの関係かもしれないが、澪尽しで終わる「カケラ遊び」が夜明けを思わせるような絵であるのに対し、原作は晴れ渡った空である。「祭」のジャケットが夜だったことを考慮するならば、「祭」→「カケラ遊び」→原作という流れが想定できる。これは端的に人が三人(=鉄平、リナ、羽入)死ぬ「不完全な」澪尽しから誰も死なない「完全な」祭囃しへ、という意味を含んでいると推測されるが、これが悟史の救済と関係するかどうかは今のところ謎である(普通に考えれば逆になりそうなので)。
予定より長くなってしまったので、次回悟史の救済を批判した文章のプロトタイプを掲載して終わりにすることとしたい。
○原作とPS2版(「祭」「カケラ遊び」)の関係
前回の記事を見て、ひぐらしそのものではなく、原作者が監修しか行っていないPS2版がダメなのだと考えたり、あるいはそれによって原作そのものを擁護する人がいるかもしれない。もちろん、憑落し編の展開のひどさなどは、演出的効果を考慮に入れても、同覚書で指摘したように明らかだし、また澪尽し編でやたらにドモったり、魅音を引き立てるためか詩音がやたらに頭の悪いキャラになっていたりと、違和感の多いというか批判すべき部分は少なくない。では、やはりPS2版を切り離して評価すべきなのか?電撃オンラインに掲載されたスタッフ座談会の内容を見てもらいたい(強調は筆者による)。
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叶:まずタイトルについては漢字は違うんですが“澪標(みおつくし)”っていう言葉があるんです。船が港に到着するときの印という意味で、つまりゴールというイメージですよね。それと『万葉集』なんかにもあるんですけど“みおつくし”=“身を尽くす”という意味にもかけています。要するに誰かのためになにかをするという、思いやりみたいなものも示してるわけです。その2つの意味を兼ねてタイトルを決めました。内容については……さすがにほとんど話せませんが、『祭囃し編』のコンセプトを中心にしつつ、一番打ち合わせを重ねたシナリオなので、大長編の締めくくりとして、うまくまとまってると思います。
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多少の誇張があるにしても、打ち合わせをしたのは当然だろうし、また悟史が救われるエンディングにするのを原作者が確認(+許可?)したのも間違いないだろう。とすれば、悟史の救済が物語的にアリだと原作者自身も認めているわけであり、(PS2版の問題点を全て原作者に帰すべきでないのは当然としても)澪尽し編での悟史の救済をたとえばPS2版の「暴走」であるかのように解釈して原作と切り離してしまうのは誤りだと言える(むしろ、そのような行為を自覚して「信仰」から自由になるべきだ)。
○澪尽しと祭囃しの関係
両者はいわゆるパラレルワールドとされているが、単に平行した話というわけではなく、「カケラ遊び」と原作(祭囃し編)のジャケットは私服のレナが同じく手を広げており、共通性を持たせようという意図が見受けられる(まあ上のインタビューからしても当然か)。また、単なるアングルの関係かもしれないが、澪尽しで終わる「カケラ遊び」が夜明けを思わせるような絵であるのに対し、原作は晴れ渡った空である。「祭」のジャケットが夜だったことを考慮するならば、「祭」→「カケラ遊び」→原作という流れが想定できる。これは端的に人が三人(=鉄平、リナ、羽入)死ぬ「不完全な」澪尽しから誰も死なない「完全な」祭囃しへ、という意味を含んでいると推測されるが、これが悟史の救済と関係するかどうかは今のところ謎である(普通に考えれば逆になりそうなので)。
予定より長くなってしまったので、次回悟史の救済を批判した文章のプロトタイプを掲載して終わりにすることとしたい。
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