エル・トゥールル号事件とその背景:必然的に起こった人災とその教訓

2021-08-15 11:13:13 | 歴史系

 

19世紀末に起こったエル・トゥールル号事件(オスマン帝国の軍艦エル・トゥールル号が日本より帰国する際に紀伊半島沖で座礁し、500名以上が死亡)の際に日本が救助作業を行い、それがトルコに感謝されて親日国になった結果、イラン・イラク戦争の際に在イランの日本人国外脱出を援助するなどの縁に繋がった・・・という話を知っている人はそれなりに多いのではないだろうか。

 

これは「日本人の援助を『粋』に感じたトルコの人々が『粋』な計らいで返した」という風にも解釈できるし、あるいはここから「情けは人の為ならず」という教訓を引き出すこともできるだろう。

 

しかし、事件が起こった経緯を知れば、例えば「災害に遭ったトルコ人を日本人が善意で助けた」というような単純な話でなかったことがわかる。そもそも、エル・トゥールル号自体が木造で遠洋航海に耐えられないと言われていたこと、ゆえに派遣には多くの反対意見があったこと、その原因としてオスマン帝国や海軍が窮状に陥っていたこと(これは同時代の清朝と比較するとわかりやすい)、にもかかわらず甘い航海の見通しにより予定が狂って窮乏したこと、日本の引き留めを聞かずに無理やり出航したことetc...これらを見ると、エル・トゥールル号事件とは、まさに「起こるべくして起こった人災」と言わざるをえない(ついでに言えば、オスマン帝国の事件隠蔽工作というオマケつきだ)。

 

また、日本側についても、単純に感動的エピソードのようなものとは言い難い。自分たちも厳しい状況にありながら決死の救助活動を行った地元(言い換えれば「現場」)の人々こそ賞賛されるべきものとしても、例えば船での負傷者護送はドイツ軍の方が早かったし、本国への送還も日本が主体的に動いてのものというより、様々な部署で意見の対立があったところを、ロシアによる送還の可能性(噂)を受け、体面を保つために日本が送り返すことに決定した、という次第であった。

 

そして送還が完了する頃には、別の事件が起こって一連の出来事やイスラーム世界への関心も日本から雲散霧消したというわけ(なお、動画のラストに出てくる大津事件の被害者は言うまでもなく後のニコライ2世だが、およそ15年後にはそのロシアとの戦端が開かれて勝利したことにより、日本が欧米によって植民地化されたアジア各国から注目され、中国同盟会の結成や青年トルコ革命、あるいはカルカッタ大会や東遊運動のように、様々な改革運動や独立運動の契機となったことはよく知られている通りだ。まあその結果どうなったかは、前に紹介した『アジア主義』などを参照)。

 

このように周辺情報を知ると、エル・トゥールル号事件を単純に「日本とトルコの間の感動秘話」のようなものとして扱うのはいささかナイーブに過ぎる、ということが理解されるのではないだろうか。

 

では次回、このような理解を元に今回のオリンピックや先の大戦について述べたいと思う。


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