土産と関係性に関する小噺:あるいはこれからの分断と生きづらさについて

2021-07-22 16:43:43 | 生活

 

北陸旅行の記事も次から最終日となるが、ただ書き連ねるのも面白みがないので、他とつながる話に少し触れてみたい・・・

 

てなわけで冒頭で「ただよび ベーシック」の現代文の授業を掲載してみた。出口先生の授業を聞くのは高校の頃以来なので、それだけでお懐かしゅうございますという感じだが、内容としては「欧米人からは一見不可解に見える日本人の風習=旅行のお土産として多くの人に『つまならいもの』としてまんじゅうなど安価なものを配る行為が、どのような効果・意味合いを持っているのか」を説明した文章である。

 

これを理解する際には、補助線としてモースの『贈与論』とかを読んでおくと、単に「欧米人に理解できない特殊な日本」というオリエンタリズムではなく、ポトラッチなども含めた一見すると不合理にも見える贈与行為にどのような背景や効果があるのか、というマクロな引いた視点で考えることができるので、有益である。

 

という話を展開してもいいけれども、今回はちょっと個人的な話をしてみよう。随分前に書いたことがあるが、私は元々お中元やお歳暮といった習慣が嫌いである。というのも、授受の連鎖や誰に贈るか否か等の手間が金銭的・時間的負担として親を拘束しているのを見て、「こんなんやったらすっぱりゼロにしちまえばいいのに」とずっと思っていたからだ。もちろん、もらったものが有効に活用されることはあるだろう。しかし、そのもらったものにはお返しをせねばならず、それが翌年のさらなる授受を生み、もはやただの束縛と化す、という現象に私は嫌気がさしていたのだ(ちなみに、何かを贈ること自体が嫌なのではなく、例えば先日は古い友人に出産祝いを送ったばかりである。要は、「明文化されないルーティンとして義務的に課されるのが厭わしい」ということ)。

 

とはいえ、本文中で触れられる旅行の土産に関しては、私も地元の名産を欠かさず買ってくるようにしている。別に頼まれたわけではないし、相手に買ってくることを望んでいるわけでもないし(ほしいものがあれば自分がネットで注文すればいいだけ)、ましてその行為が社内規定で決まっているわけでもない(当たり前だが、ここは非常に重要な点であるw)。

 

しかしそれでも、それこそルーティンのように私も他の職員も買ってくる。なぜだろうか?なるほど「自分が休んでいる間に働いているもらっていることの感謝」的な意味合いがゼロというわけではない。また、土産によって旅行話に花が咲く=コュニケーションの契機が生まれる、といった側面もある。このようなある種の計算、つまり合理性や戦略性(カッコつけて言えば合理的適応)がゼロというわけではないが、じゃあそれがメインですかと言われると明らかに違う。つまり、説明しがたい何がしかの「心の習慣」に基づいていることを認めざるをえない。その意味で言えば、私もまたこの文章に書いてある立派な「日本人」の一人、ということになろう。

 

まあこの由来を紐解けば江戸時代のお伊勢参りとかになるのかな?と思うが、文章の中で一つ興味深かったのは、そうして作り出された生活の周囲にいる人々とのゆるやかな心理的紐帯が、結果として「革命は起こりえない」という話にまで繋げられているところだ(ある種皮肉にも聞こえるが)。

 

このようなぶよぶよした幾層もの関係性の履歴が、ある時は束縛として、またある時は紐帯として機能する。これが結果として他者との緩衝材となり、「剥き出しの個人がお互いを独立した存在として尊重し、(その激しさには状況によって差はあれ)熟義を重ねて社会を構築していく」という欧米との差異を生み出している、という話であろう(まあここで言う欧米ってのは主にアメリカのことであり、ヨーロッパは国や地域による違いが大きい、という点は一応言及しておく)。

 

その結果として、大小様々な領域で相手に直接刺さるような自己主張をすることが避けられ、結果として何となくの雰囲気、つまり「空気」に任せる風土ができあがる云々、というまあよくある分析が生まれるわけだ(とはいえ、この点をあまり前面化しすぎるのは問題がある。なるほどそれは先の大戦の要因や敗因の一部ではあろうが、よく指摘される「無責任体制」は、何もそういう関係性から漠然と生み出されたものではなく、天皇に盾突く権力が現れないようにと意図的に作り出されたものだからだ)。

 

そういうわけで、先の「革命は起きない」という話に戻るわけだが、とはいえ昨今だと地域共同体は解体に向い、価値の多様化やライフスタイルの多様化によって社会の分断が日に日に進んでいるのは明確であり、少なくとも先に述べたような関係性は崩壊しつつあるように思える(正確に言うと、表立ってはまだ機能しているが、それがただの表層でしかないことを示すネットが同時に存在しているため、もはや以前のようにはその関係性を信じている者はいないだろう)。

 

まあもっとも、それが大きなシステム変革の動きへ繋がるかと言うと、疑問は大きい。関係性が変化しても熟義の背景がない以上はただの忍耐か、反対の感情的表出としかならず、言った者勝ち、やった者勝ち的な不安・不満の高まりを生み、それは生きづらさを拡大させていくだろう。しかしその結果、不安を抱く人の多くは既存のシステムへのしがみつきや反動に向い、システムを変えようとする人たちとの深刻な溝は埋まらないまま、システムは両論併記的にただ既存のものが遅々として残り、社会生活を営む難易度だけがどんどん向上していく社会がこれから到来するのではないか(その代表が短絡的な自己責任論、というわけだ)、と私は思う次第である。


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