チョムスキーとリベラリズム

2018-09-20 12:11:27 | 感想など

 

 

 

もう90歳を迎えようとしているチョムスキーのインタビューが聞ける、というのは非常に貴重な機会だ。しかし、老いてなお明晰な議論を展開しているあたり、さすが知の巨人というところか。新自由主義と中間層の崩壊、被雇用者の立場弱体化と雇用者への依存度の高まり、不安の増大と排外主義の高揚、分断と扇動etc...と様々な興味深い話が展開されている(チョムスキーの著作に絡んでメディアコントロールの話も出てくるが、これについては『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』などを連想した)。

 

これに対する宮台真司の批判的視点も興味深い。彼もチョムスキーと問題意識そのものは共有しているが、それに対する解決策もしくは構えは大きく異なっている。それを端的に言えば「チョムスキーのリベラリズムVS宮台のコミュニタリズム」と表現でき、ゆえに私はロールズとサンデルの論争を思い起こした(たとえば宮台は大要以下のような発言をしている。「そもそも人が誰かを『仲間』と思う範囲は国などという単位よりずっと小さく、ゆえに普遍的価値というのを唱えても容易にお題目に堕するし、それは精神力などの問題というより、ある種本能的なレベルの問題ではないか」と。この理屈を正当化に用いだすと堕落と腐敗の温床となる危険性はあるが、一方でこういった断念がなければ表層的なPC[タテマエ]となるのが関の山で、その結果はむしろトランプ現象やブレグジット[ホンネ]を生み出す)。なるほどチョムスキーの発言には説得力があるが、一方で正しく説明すれば普遍的価値をみなが共有し、それを誰もが志向するはずであるという信頼の危うさ、処方箋の不確かさを強く感じた次第である。

 

単純な二項対立を避けるためか、宮台はそのように立ち位置の違いを図式化はしない。その替わりに、クラッパーやラザーズフェルトの分析を持ち出し、受容環境によって人の志向性が大きく変わることに触れている。そうすることによって、単に普遍的価値の重要性を訴えるだけではダメで、それを重要だとその人が思うような内発性を涵養する環境の整備こそが重要だと語っているわけだ(たとえば日本の生活保護叩きと、日本国憲法で保障されているはずの「最低限度の文化的な生活」は典型的だ。フリーライド批判自体はどこでも起こりえるものだし、また生存権といった反論をすることは可能だが、果たしてそれはどこまで説得力を持つのだろうか?自己との交換可能性対象の多様な来歴を考えていないナイーブな生活保護叩きには呆れるしかないものの、一方いかなる動機づけがあれば冷静な議論を始められるのか、というのは頭の痛い問題である)。しかし、議論の方向性を考えると、ジョナサン=ハイトやミッシェル=フーコーに触れて近代社会や西欧民主主義というもの自体のローカリティにも言及した方が、リベラリズムに位置するチョムスキーの見解と対応策に潜む危うさはよりわかりやすく提示できたようにも思う(まあ「限られた時間の中で、文明論的なアプローチより認知科学的なアプローチを重視して人間の限界を論じ、もってチョムスキーの見解の危うさを指摘した」というのはもちろん理解はできるのだが)。ちなみにチョムスキーがフーコーと対談した時の動画もあるが、ここでもリベラリズム(インタビューの言葉では「解放」と「創造性」)を称揚するチョムスキーに対し、そもそもそのような発言の土台となった西欧民主主義というものの成り立ちを『知の考古学』『狂気の歴史』で歴史的・批判的に分析してきたフーコーが懐疑的に応じているのが印象深い。

 

 

この他、リベラルナショナリズム、リチャード=ローティ、スーザン=ジョージなど触れたいことは様々あるが、この稿はいったんここまでとし、機を改めたいと思う。

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