STAND BY ME ドラえもん補遺:片務的な無償の愛

2015-02-16 12:03:28 | レビュー系

さて昨日は、「STAND BY ME ドラえもん」の内容が現在の日本の状況と日本人のメンタリティを大変よく反映していると書いた。

 

今回はそのような視点に絡めつつも、「しずかとの結婚がゴールである」という展開により改めて持った違和感を書いてみたい。なお、以下の話を読んで「小学生向けに書かれたマンガなんだからそこまで言うのは酷じゃないの?」という意見が出るかもしれないが、その最初期において「どっちも正しいと思って(戦って)るんだね」「戦争なんてそんなもんだよ」といったぎょっとするようなセリフも登場する作品である(「戦争はよくない」といったクリシェではないところに注意を喚起したい)。そのようなドラえもんの深さと、また以下で述べる特徴が様々な作品にも通底するものであるという点を考慮し、お読みいただければと思う。

 

まず一つ目は、のび太としずかの非対称性である。のび太はジャイ子との未来を拒絶し、思いを寄せているしずかとの結婚を成就させようとする(たとえば、誰からも必要とされずに死んでいく未来を拒んだのではない。そこには明確に選抜の意識がある)。結局のび太の何かが大きく変化したわけでもないが、しずかは「のび太さんは危なっかしくて放っておけない」と言い、出来杉英才という名前の通り完璧超人を絵に書いたような男ではなく、のび太と結婚することになる。その意味で言えば、のび太は「ありのままを承認された」と見ることができよう。ここでの必然性のなさはまるでDVなどで共依存状態にでもなっているかのごとくだが、ここで私には素朴な疑問が湧く。「危なっかしくて放っておけない」のなら、ドラえもんが来てないのび太の未来はもっと悲惨なものだったはずで、しずかはそっちの方がより強く(庇護の感情が芽生えて)反応したんじゃないの?と。そういうわけで、しずかがのび太を選ぶ必然性は感じられない。まあこれについては、「その人の容姿や能力で好きになるわけじゃない」という反論はできそうだが、それならのび太がジャイ子を拒絶したことが引っかかる。さっきも言ったが、のび太の未来が孤独死などであったならわかる。しかし、ジャイ子との、そしてその子供たちのいる未来を拒絶してしずかとの未来を求めるわけである。自分は何を身につけたわけでもないが、がさつで可愛くもない子と一緒になるのは嫌だ(ところで、太った女子の恋愛対象からのハブられぶりに関しては、少年漫画からエロゲー、映画に到るまで実に「コード」と言っていいレベルで徹底されているのは興味深い。私が知る限り、それを正面から描いたのはヤンジャンで2000年代前半に連載していた漫画[題名を失念した]くらいで、また意識的にそれを題材として扱っているのは「ヘルタースケルター」「脂肪という名の服を着て」などやはり数が少ないように思われる)。しかし自分の想い人であるクラスのマドンナ的存在は、そんな自分を最終的に好きになってくれ、結婚までしてくれるというのだ。もしも私が、題名を伏せられて展開だけ聞いてたら、おそらく「それなんてエロゲw?DT野郎の妄想か何かかい?独善的で都合よすぎだろw世の中なめてんの?」と鼻で笑っているに違いない(せめて「Bバージン」的な努力の後でもあるなら話は別だが)。ついでに言っておくと、この二人に非対称性を感じるのは次の理由もあると思われる。のび太が秘密道具を使ってあえてしずかから嫌われようとした時、しずかだけがのび太を助けることができた。一方で、しずかがのび太を強く拒絶したりひどい容姿になったりするケースも、またその時にのび太だけがしずかを救おうとした(or救った)というエピソードは管見の限りない。これとジャイ子の件を合わせると、しずかの態度が都合の良い無償の愛であるのに対し、のび太のそれは常に条件付きである疑いを拭えないのである(とりあえず「しずかちゃんまで僕を!」という発言はキモすぎである。しずかはお前の何なのかと。過度に理想化して処女厨とかになってなけりゃいいがw)。このような特徴は、女性キャラがなぜかことごとく主人公に好意を寄せるギャルゲー・エロゲーと大差ないものに私は見える。

 

さて二つ目。セワシはともかく、のび太とジャイ子の間に生まれた子供たちはどうなるのか?のび太はその未来を嫌がっているが、写真を見る限りジャイ子も子供達も不幸そうには見えない(ついでに言っておくと、実はジャイ子との未来は「脅し」で、のび太を頑張らせるための口実だったと考えると、この前後で書いている問題はすべて解決する!!が、それなら持ってくる写真はのび太が悲壮な佇まいをしているはずで、この解釈もかなり苦しいと言わざるをえない)。「笑っている=幸せ」という見方はあまりに短絡的だとしても、否定的に捉えるべきものかいささか疑問である。そんな彼らは、のび太とジャイ子が結婚しない場合、存在が抹消されるのではないか?仮に同じ数だけの子をジャイ子が他の男性との間に生んだとして、それは「同じ人間」と言えるのか?このような疑問が湧いてくる。これに対し、同じ存在とは言えなくても、元の未来より幸せな生活を送れていたら幸せってことでいいんじゃないの?という反論は一応できる。しかしそのような見解に、優生学的な発想をみるのは私だけだろうか?さらに重要なことは、ジャイ子や子どもたちが切り捨てられた後どうなるのかという想像をのび太が働かせているようには見えないことだ。そういう想像力の働かない奴が「人の幸福を喜び、人の不幸を悲しむことができる人」なのか、私には極めて疑問である。

 

以上二点が、のび太としずかの結婚をゴールとして定めたオムニバス形式ゆえにより浮き彫りになったドラえもんから感じる違和感である。勘違いしないでほしいが、私はたとえば「ジャイ子もしずかも平等に好きになるべきだ」などというアホなことを言いたいのではない。ただ、のび太のあり方は、ジャイ子のような可愛くない子は嫌で、しずかのようなクラスのマドンナ的存在に憧れる極めて凡庸なものに見える(一応しずかは「ダメな自分にも優しくしてくれる」という承認の問題はあるにしても)。さらに言えば、彼は凡庸なだけでなくしばしば愚かでもあるが、それでも、いやむしろそれゆえにこそ憎めない・嘲笑えない存在なのではないか。だから親近感が湧いたり、時にドラえもんのような立場でため息混じりにその振る舞いを見ることはあれ、それを(しずかの父が言うように)理想化するのは違うように思える。映画版ではのび太の成長らしい成長がしずかとの結婚が決まる前は描かれないこともあって、そのような印象を強く持ち、またその特徴(独善性・都合の良さ)が様々な作品にも通底するものであると非常に興味を覚えた次第である。

 

さて、あともう一つ書くべきことがあるので、それは次の機会に回すことにしたい。


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