STAND BY ME ドラえもん:今日の日本をよく象徴する作品として

2015-02-15 13:50:23 | レビュー系

 

私はこの作品を見たとき、率直に言って非常に感心した(「感動」とか「おもしろい」とかではない)。というのも、この作品の特徴と多くの受け手の反応が、今の日本の状況あるいは日本人のメンタリティをよく反映していると感じたからだ。

 

この映画の話は「未来の国からはるばると」、「たまごの中のしずちゃん」、「しずちゃんさようなら」、「雪山のロマンス」、「のび太の結婚前夜」、「さようならドラえもん」、「帰ってきたドラえもん」というドラえもんの有名なエピソードを、のび太の願望(未来)を成就するという観点で再構成したものである。見た人も多いだろうし有名なエピソードだからネタバレ承知で書くと、展開はおおよそ以下の通りだ。未来からやってきたセワシとドラえもんはのび太が将来的にジャイ子と結婚することになると宣告する。それを変えたいと望むのび太をサポートするため、ドラえもんはしずかと結婚するという願望が成就されるまで未来に帰れないというプログラムを施される。秘密道具で散々遊んだり雪山のエピソードがあったりで、しずかとの結婚という未来が成就する(正確には成就するであろうと確信できる状態にまでなる)。ドラえもんは帰ろうとするが今ののび太がちゃんと「自分でできる」か気になって後ろ髪引かれる思いである。そこでのび太はジャイアンとドラえもんに頼らずタイマンを張って「勝利」する。その姿を見届けてドラえもんは未来に帰るが、ご存知のように結局戻ってきてエンディング・・・となっている。

 

以上のような展開における特徴は、のび太がジャイアンに一人立ち向かうところを除けば、のび太の成長らしい成長が描かれないことである。ゆえにしずかがのび太に惹かれる(彼を選ぶ)理由が正直よくわからないとともに、ドラえもんが帰ってきたことによって、唯一の成長ポイント(転換点)さえ曖昧になってしまうのである。よってこの話からは、「成長・成熟などしてくてもよい」というメッセージしか伝わってこない。なぜならそれでも想い人からは選ばれるし、自分を(必要以上に)強力サポートしてくれる存在も自分から離れていくことはないからだ(ここで、「ありのままの自分でいい」という承認の話として見てることができるのでは?という人がいるかもしれない。しかしそれなら、なぜジャイ子との未来を拒絶するところから話がスタートするのか教えていただきたい。これは自己否定であるのはもちろんだが、ジャイ子という存在の否定でもあるのだ。のび太[=男と一般化することもできる]はのび太のまま「ダメ人間」でいいのに、ジャイ子[=女と一般化することもできる]はしずか的であれというのは、あまりに手前勝手な理屈ではないだろうか)。

 

もちろん、「帰ってきたドラえもん」で終わらざるをえない事情は理解できる。まずそもそも、原作がそのような展開になっていること(その観点で言えば、ドラえもんの開発者が実は・・・という同人誌で描かれた「最終話」は、ドラえもんとの再会とのび太の成長・成熟を見事に結びつけた内容であった)。また、ここで「さようならドラえもん」の内容で終わらせたら、次の映画に続けるのが難しくなるであろうこと。別離の悲しみと再会の感動と二度感情を揺さぶる(一度で二度おいしい)という演出的な効果が見込めること。以上を鑑みれば、製作者サイドとしてこのような展開を採用する必然性は理解できる(ハリウッド映画がハッピーエンドを志向するのと同じ理由だ)。

 

では、一体どこが「今の日本の状況あるいは日本人のメンタリティをよく反映している」と感じるのかと言えば、このような作品に対する反応の多くが素直な感動であって、批判的なものでもCGに対する違和感の表明でしかない点にこそある(「感動の押し売り」という評価も希に見られるが、それもなぜ「感動の押し売り」と感じられるのかという考察はない)。つまり、この作品が一見のび太の未来・成長を描いているように見えて、実際には成長や成熟(とそれに伴う断念)を全く回避していることに気づいてさえいない人が大半と言うことができよう。また、今回は初期ドラえもんのリメイクとしてノスタルジーが強調されていることに異論はないと思われる(CGに対する違和感・拒否反応の大半もノスタルジーに関連するもの[=昔と違う!と感じる]と言えよう)。とするならば、今回の「STAND BY ME ドラえもん」とそれに対する反応は、「成長を描く物語に見えながら実は巧妙に(ジャイ子といった)ノイズと成長・成熟を否定する世界で、感動(というか情動)とノスタルジーにどっぷり浸る」ものと表現することができる(ここで『永続敗戦論』で描かれた否認の構図とマッカーサーが日本を12歳の少年と評した状況を重ね合わせるのもおもしろい。結局のび太のそばにドラえもんがい続けてくれること、そしてそれに違和感を持たないことは日本のアメリカに対するメンタリティと相通ずるものがある)。そして私はこのような構造が、「美しい国」と言いながら排外主義に傾き、そして誤った過去の認識とポピュリズムによって駆動される今日的な日本の状況と日本人のメンタリティを実によく反映していると思えるのである。


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