残りカスを残滓と言っておけばそれなりに恰好よく聞こえるので、言葉って大事なんだなあと思う今日この頃

2018-12-04 12:49:40 | 日記

 

 

 

 

前回は記号化やデータベース化について話し、現代美術って結局は反抗する土台(そこからズレることで強度を生み出す元となる準拠枠)を失って袋小路に入ってしまったよね、的なことを書いた(まあ有り体に言えば、小さな物語が乱立するポストモダン的状況が当たり前になった、ということだ。「オルタナティブファクト」と現職のアメリカ大統領が公の場でのたまうのはその典型)。

 

まあ袋小路に入ると、人間奇抜なことをやるか前例主義に走るのが常で、実際に金を積んでオリンピックを招致したり、いきなりサマータイムとか言ってみたり、万博に夢をかけてみたりする。さてこれら二匹目のどぜう狙いだったり表層的な模倣がどのようなカタストロフを生むのか、はたまたギャグみたいな逆転ホームランになるのか・・・そういう心持ちで、きたる20年代をlook forwardしてる私である(まあ一応言っておけば、難波を拠点とする南海電気鉄道が、路線を拡張して開発中の北梅田=オフィス街を通りつつ、新大阪まで到る計画を2031年を目標に進めてる等の動きがあるそうだから、万博も大阪復権に向けた一里塚のつもりなんだろうが)。

 

まあそんな皮肉はともかく、パターン化云々の話は別に現代的な話というわけでもなく、たとえば以下のような流れにも見て取れる。 

「ルネサンス→バロック→ロココ→新古典主義→ロマン主義→写実主義・自然主義→象徴主義・耽美主義」

詳しい人にとっては色々と突っ込みたいところだろうが、まあ細けーところはさておいて(ぉ)、こんな感じで説明することができる。すなわち、

 

バランス重視のルネサンス(ダヴィデ像の黄金比!)

バランスから外れてド派手なバロックだオーラ―!

ロココはちまちましたところにこだわりたい・・・

やっぱバランスっしょ!古典に回帰すっぺ!

何がバランスじゃ、理性じゃ(# ゚Д゚)!俺はこの熱く燃える感情をこそ表現したいのさ!それに普遍の真理みてーなこと言ってけど、そんなんより俺ら民族の独自性を探求したいよね!

感情こそが大事、そう考えてた時期が俺にもありました・・・でもやっぱあるがままをしっかり描写することが大事だよね。ついでに社会問題にも踏み込めればなおよし!

現実?社会?理性?何それ美味いの?この世は夢よただ狂え!

 

こんな感じで見ていくと、まんま今日のファッションの流行りすたりを見ているような気がしませんか(*)?「ファッション」というと衣服だけに思えるかもしれんけど、たとえば「戯れと虚構の90年代から、癒しと感謝と着地のゼロ年代へ」、みたいな感じでもっと広く観察される構造である(要するに、今を準拠枠に次のものが作られるので、長い目で見ると循環構造が見られたりするってこと。ちなみに賢明な読者はお気づきのように、ここでは文化の大衆化云々とかは捨象しております)。

 

すると、たとえばドラクロワって人の絵で、旗持った女がおっさん達を先導してるのを見て、「こいつ何で胸はだけてるんだ?」と疑問に思いつつも、「まー何かすげーんだろーな」と適当に納得というか流してきた人もあら不思議。単にこれ時流に乗った中二病(俺の脳内革命女神タンを見てくれ!w)じゃね?って考えると、まあ何とも笑えるわ親近感が湧くわって話である。

 

こう考えてみると、何か深淵に思えた過去がただのパターンに見えてくるし、あるいは逆に、ただの薄っぺらい流行と認識していたものが、一つの貴重なサンプルとしても見えてくる。

 

しかし実のところ、それは至極当然のことではないか?なぜなら、その昔に生きていたのもまた、我々と同じ人間でしかないだからだ。たとえば、今では有名なボロブドゥールも、かつては密林に埋もれ、それを19世紀に発見したのは、植民地化のために進出してきたイギリス人だった。つまりは、今日重視されている物が、連綿と受け継がれてきたものとは限らず、たとえばナショナリズムなどを通じ過去のルーツとして美化され、それゆえに価値あるものとしてみなされるようなことが起こったのである。まあ端的に言えば、昔の何やかやをやたら有難がったり持ち上げたりする傾向ってのが生まれたわけだ。

 

こうして「文化の流れ」のようなものを見てみると、(言葉は悪いが)その意外な俗物性によって、普段我々を覆っている妄想(=過去を勝手に過大評価する精神性)にはっと気づかされるんじゃなあないか、という話。

 

さて、そこから人類とその未来に目を向けてみると、前に述べたように記号化・データベース化が進む今、人間をパターンの集積(確定記述の束)としかみなさない傾向は強まっていくだろう(もちろん、ある程度のバックラッシュはあるだろうし、今日アーミッシュが存在するように、あえてデータベースの海に近づかない人たちも残り続けるだろう)。

 

これが、先日書いた人工知能の件に繋がる。ネットという巨大な情報の海の中で、我々はデータベースを広く見渡すことができる(ただし人間の不完全性ゆえに全体を見渡す時間も気力も能力もなく、結果として「見たいものしか見ない」ことになる。そのため、同じ指向性の人間ばかりが集まり、カスケード化と分断=蛸壺化・島宇宙化が進んでいくのだが)。その中では、固有で交換不可能と感じていたものが、容易にパターン化できるものとみなされてしまう(芸術、ファッション、嗜好、言説何であれだ)。そこでは、人間はせいぜい「時にランダム性を持つ出来のいいbot」程度のものというわけだ。

 

さてその時、「AIには知性がない(AIの非人間性)」と指摘することに、何の意味があるだろうか?いや正確には、仮にそうだとしても、そのことで人は自分たちが人工知能より何らかの優位性を持っていると感じるだろうか?むしろ「AIが『不完全な神』であれ、他者という『ノイズ』を嫌う者はそこにコミットする」のではないか?あたかも大航海時代に新大陸を訪れたヨーロッパ人が、現地人を同じ人間とみなさなかったように、だ(このような問題意識は、曖昧とみなされる危険を承知で言えば、「『我々』とは誰だ?それは一体どこまでを指すのか?」というものである。それを理解するには、「ブレードランナー2049」のような人間VS人工知能という図式だけでなく、「散歩する侵略者」「クリーピー 偽りの隣人」「愛しのアイリーン」「沙耶の唄」といった作品に触れてみるとよい)。

  

要するに、前回の「騎馬で芸術沼に突撃してみた」は、もちろん「日常アールデコ」の続きなのだが、そこに共通して表れる記号化・データベース化・現実加工という題材は、人工知能の話(前掲の「AIが~」)とも連続しているのである(無論、「ポプテピピック」や「シュガーラッシュ」を始めとする「ねるねる的想像力」の話ともつながっている)。

 

前回の記事ではそこまで説明する時間がなかったため、忘れないうちに書いておこと思った次第。ほいじゃあ相変わらず体調悪いんでこの辺で寝ますわ。お休みとっつぁん・・・

 

 


これはoversimplificationでねーか?と訝る向きもあるだろうが、まさしくそれは正しい。それはあたかも、江戸時代以降の宗教だけ見て、「日本の宗教は政府にべったりだ=従属的・反抗心がない」と述べるようなものだから(じゃあ僧兵とか一向一揆ってどうなんの??て話→「間違いだらけの日本無宗教論 幕間劇」)。

また、表現技法だけに注目するからパターン化して見えるだけで、たとえばセザンヌの「りんご」関連作品にしたって、その背景(ゾラとの関係性)を知れば表層的な美を見るだけでなく複雑な感慨に捉われ、そこに着脱不可能な固有性を見出すはずだ、といった反論はもちろんアリアリアリアリアリ(ry・・・

なわけだが、そもそも今の時代は情報量が多くなりすぎて、いちいち背景まで調べずに条件反射でレッテル貼りをするケースがそこかしこに見受けられる。それを踏まえれば、今後ますます人はセザンヌのりんごの背景に興味を持たなくなって彼をただ「ポスト印象派の一人」と記号化して理解&満足するのと同様に、他者理解についても記号的理解の傾向を強めていく(それは人間とAIに大きな差異を見出さない傾向と重なる)のではないか・・・と私にはそう思えるのである。

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