他者理解の欠落:中年童貞、「本当の自分」、男性が女性に奢るべきか問題

2023-05-07 12:49:54 | 感想など

昨日は『中年童貞』の著者である中村敦彦とバキ童たちの鼎談について触れたが、少し補足をしておきたい。

 

『中年童貞』に登場する人物の発言に「本当の自分を見てくれる人がいつかきっと現れる」というものがある。まあこれにいちいち突っ込むのもアレだが、他の問題にもつながる話なので少し掘り下げておきたい。

 

まず、これへの簡単な質問(反論)としては、「で、あなたは相手の本当の姿を見た上で評価しているんですか?」というものになるだろう。まあ自己正当化で認知が歪んでいる人にこの質問の意図が正しく伝わるかすら怪しいが、要するに私たちは相手の表面的な外見や言動で評価するしかなく、そのどちらも努力=他者からの見られ方の意識によって形作られてきたものである、ということだ。

 

この点、特にわかりやすいのは「化粧」だろう。化粧動画は何回か紹介したことがあるので今さら繰り返さないが、土台を作ってコンシーラーやマスカラ、エクステetc...とそこには膨大な時間と費用がかかっている。そこに加え、ヘアケアやネイルなどもあるわけで、まあ大変だということは容易に想像がつくところと思う。

 

で、私たちが見ている(主に)女性の外見というのは、そういう様々な努力によって成り立っているわけだが、「本当の自分~」などと嘯いている一体どれだけの人間が、女性の外見に対してそれは膨大な努力によって積み上げられた「仮の姿」に過ぎない、といったことをっ考えて相手を評価しているのか、ということである(この子いいなあと思っているのは、結局バチバチに作り上げられた姿ですよね?)。別言すれば、それを自明のように相手に求めているあなたは、一体自己陶冶にどれだけの時間を割いたのかい?て話。

 

「相手に求めるから自分もやる」、「自分もやらないから相手にも求めない」これはわかる(もちろん努力の全てを定量的に評価するのはなかなか難しいけれども)。しかし、「相手には求めるが自分はやらない」ってどういうことなんですかね😮?

 

まあこういう風に考えてみると、中年童貞の言う「本当の自分を見てほしい」なんてのは世間知らずも甚だしい爆笑ものの発言であって、おそらくそれが幼児的な自己正当化に過ぎないんじゃないかとすら気付いてないという意味で、「だからお前は童貞なんやで」と言われても仕方ない認識と言える(まあそもそも「本当の自分」なんての自体が多分にフィクションじみたものだというのは何度も書いているので詳しくは繰り返さないが、要は命の危機といった極限状況をあれこれ経験してもいないのに、どうして「本当の自分」の領域なんてものがわかるのかって話である)。

 

・・・というような前提を元に、以前批判的に取り上げた「デートに際して男は女に奢るべきか」という問題に立ち返ると、その根源にある不満は「男性は女性の多大な努力をあまりに理解しなさすぎだ」と言えるのではないだろうか。よって、「これだけの努力をしているのだから、それを理解してその労をねぎらってほしい」という意識の発露が「デートでは男性に奢ってほしい」という認識・発言なのではないかと。

 

まあそういう風に理解することはできるし、努力に対する無理解に怒る気持ちもわかる(結局大半を外見で評価する癖に!てね)。だから男が奢るべきか問題についての最初の記事はやや微温的なテンションで書いているのだが(発言も上から目線な感じじゃなかったし)、それでもこの発言が公に=関係性が構築されていない人&多様な属性の人にもされた時点で、批判されるのは必然的だし道理なのである。具体的には以下の通り。

1:主語がデカ過ぎ(奢ってほしいと考えている女性の割合は全体の1/4程度)

2:男性の投資(ガソリン代など)に対して無理解過ぎ

3:どこまでが投資対象として相応しいのかが曖昧・恣意的

 

まあそりゃ炎上しますわって話(だからすぐ消したのはわかるんだけど、そうするくらいなら何で1日寝かして考えるとかしなかったのかな~)。2・3については「お前の事情なんて知らんがな」と思われる向きもあるかもしれないが、だったら男性が「お前の化粧にかかるコストとか知らんがな」と考えるのをどうして批判できるなどと思うのだろうか?とブーメランが返ってきて終了である(他者性の無さっていう意味では五十歩百歩っすね~、で終わり)。

 

まあ個人的な人付き合いの領域で、関係性を構築した上で価値観が合う人との話なら別に問題ないし、今も女性に奢る男性の姿はそこかしこで観察はされるんだろうけど、それを一般化して公の場で出すにはあまりに不用意でしたね、という話である。

 

というわけで、最終的には「他者性の欠落」という共通のテーマに繋がる。今後社会の複雑化や価値観の多様化が進めば、ますます共通前提は減ってこういうやり取りは難易度が上がっていくだろう。しかも、そこでは価値観を表明してすり合わせをするより、表面的に合わせてリスク回避を取る傾向(いわゆる「空気読み」)がすぐに変わるとは思えない(→「自己責任論が生んだ『ゼロリスク世代の未来像』」でも書いたように、共通前提が通じなくなってきている日本社会の中で、若い世代はむしろますますパターンに自分をはめ込んでリスク回避・不安解消を図ろうとする傾向が指摘されている。ここには、しばしば取り上げられる「日本人の自己肯定感の低さ」も関係していると思われる)。

 

そしてこれがさらに進むと、「そんな大変なコストを伴う他者理解より、botの方が楽でええやん」と思う人間が増えていき、他者はよりいっそうブラックボックス化していく→ますますbotに傾倒というサイクルになるんじゃないかね(=「AIの進化」と「人間の劣化」が同時に進む)、といういつもの話を述べつつ、この稿を終えたい。


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