ソウルイーター~「ガス抜き」の巧みさ~

2011-11-03 18:14:27 | レビュー系

先日、「メタ・エンターテイメント」という記事でソウルイーターが極めて良質なエンターテイメント作品であると同時に、その構造を浮き彫りにする作品でもあると書いた。ここで言うエンターテイメントとは、改めて説明するなら受け手の価値観や快楽原則と衝突しない(ように作られた)作品を意味しているが、良質なエンターテイメントを作るためには、快楽原則に抵触するノイズをどのように排除していくかが重要であるかは言うまでもない(排除しきらない、という手法も含めて)。今回はその一環として、エクスカリバーとメデューサの使い方(描き方)を取り上げ、この作品がいかにして受け手のガス抜きを行っているかを見ていきたい。

 

<エクスカリバー>
エクスカリバーがクローズアップされる(話の中心となる)機会は3回ある。具体的には1回目が第9話、2回目が第17話、3回目が第32話だが、それらは全てクロナの登場(描写)とリンクしている。もっと踏み込んで言えば、ソウルが重傷を負って黒血が体内に入り込む+マカ落ち込む第8話の後、そしてクロナがマカたちと少しづつ打ち解けてきたところで彼女たちを裏切らねばならない境遇に苦悩する第31話の後という具合に、話が極めてシリアスor暗くなったところで丸々エクスカリバーをネタにした頭の悪い話(笑)が挿入されるのだ。その意図が揺り戻し(お口直しw)にあることはあまりに明白だが、その露骨さはかえってエクスガリバー(=キャラ)が作者の意図の元に配置された「駒」であることや、いかに受け手が快適に見れる状況を作り上げているのかをむしろ暴露しているように思われる(なぜこの話をするかと言うと、後に問題にするであろうアシュラのような不安をベースに世界を生きるような態度の否定と密接に関係するからだ)。

思えば、「エクスカリバー」というもの自体、極めてネタ的な存在だ。FFやFateを始めとして様々な作品に登場することもあって、ゲームやアニメにある程度触れたことのある人なら大多数が聞いたことはある言葉(存在)だが、恐らくアーサー王伝説やケルト人云々の事を知っている人は少なく、「何かスゲー剣」くらいのイメージしかないのではないだろうか。このように、文脈自由という意味でまさにネタに打ってつけの存在だと言えよう(まあ日本というガラパゴス的な環境で今さらな話ではあるが)。

 

<メデューサ>
「絶対悪」として、彼女の描き方はお手本と言っていい。たとえば、彼女は世界を狂気で満たしたいらしく、我が子を虐待してまでその目的に利用してもいるのだが、その理由は一片たりとも触れられていない。簡単に言えば「感情移入」のフックが完全にゼロの状態にされているわけだが、それに加えて受け手の意見を代表するかのごとくマカやデスサイズが怒りを表明しても、まともに取り合わず煩わしそうにするだけだ(=議論の通じる相手ではない)。以上のような仕方で、メデューサに対しては憎悪が喚起されるような構造になっている(しかもダークナイトのジョーカーのごとく、そういう理由付けに汲々とするせせこましさを超越した「格好良さ」を描いているわけでもない)。

ところで、このような演出は極めて必然的なものと言える。なぜならメデューサへの憎悪は、クロナの哀しみ(への同情)やマカの怒りと密接にリンクしており、物語の波に乗るための鍵だからだ(さらに言えば、そうして示される善悪の構図が完全にベタなものではないことを暗示するために死神のスタンスを疑う役割を息子のキッドに与える、といった配慮もさすが)。そのメデューサへの憎しみは、(原作と違って)きちんと最後に回収されるようにはなっているが、クロナが苦しんでるのにメデューサにひと泡吹かせる機会もなくイライラが溜まっている人や、そういう負の感情を惹起するような演出を嫌ったりする人がいるかもしれない・・・このようにして、死神&デスサイズが幼児化したメデューサ(正確には少し違うが)をいぢめるシーン(笑)が必要とされるわけだ。しかもその中身をパンツネタにすることによって、(a)ストレートで見苦しい表出にならない=ネタとして笑いにもできる、(b)対等の相手として扱わないことで優越感を抱かせる、という二つの効果を生み出している。その意味で、なかなかに巧みな「ガス抜き」の演出と言えるのではないだろうか(まあ全て計算づくかどうかまではわからないが)。 

 

以上のような感じで、ガス抜きのさせ方もなかなか念が入っていると言えよう。ただし繰り返しになるが、念が入りすぎていてかえって構造が透けて見えるところをどう評価するかは人によるだろうが(ちなみに私の場合、この作品が「詰め将棋」のように見える)。

 

さて、次回はマカに「萌えない」理由に関して書いていきたい。なお、あらかじめ言っておくがこの題材は批判を意味しない。むしろアニメ版の「勇気」という言葉や成熟に絡む問題として論じられることになるだろう。


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