今回紹介するのは、いわゆる「忠臣蔵」の物語がどのように成立したのかという視点で、いわゆる「仮名手本忠臣蔵」と呼ばれる歌舞伎の成立までの経緯、演者とそれによるイメージ固定の様相について、実際の事件経過の記述(と状況の考察)も交えながら説明している。
また、単に背景だけでなく、それが実際どのように歴史や社会に影響を与えたかという観点で、「忠臣蔵」のメッセージ性に反論ないし反発する江戸時代の荻生徂徠・中村仲蔵・鶴屋南北、逆にそれを賞揚・心酔する明治以降の市川団十郎・桃中軒雲右衛門・真山青果を取り上げており、言わばその「忠」がナショナリズムやその教育などとも結び付いていった(国威発揚に利用された)であろうことを記述している(一応述べておけば、受けて側の感性というアスペクトで「粋」や「肚」について一節を設けて記述しており、九鬼周造が著した『「いき」の構造』などを連想することも有益だろう)。
以上のような形で、単に忠臣蔵と赤穂事件の差異を説明したり、考察を加えるのではなく、様々な視点から(筆者の言葉を借りれば)忠臣蔵という共同幻想の成立過程やその展開を立体的に浮かび上がらせるような筆致であると言えるだろう。
なお、筆者も言及しているが、実際の幕府側の対応から、官僚主義的な硬直性、事態が急展してからの両論併記的(玉虫色)で場当たり的で空気に流される様を見出し、現代日本の政府対応だけでなく、戦前日本のポピュリズムに流される政府の姿(その典型は五・一五事件とその助命嘆願運動)を想起するのは容易だと感じた(軍部の暴走=「断固・決然」たる行動によって得られたものを「成果」と持ち上げ、迂遠な外交を評価しないマスメディアと、それに乗っかる大衆の構図、と述べれはまこれは今のロシア及びウクライナ侵攻にも通ずるものがある)。
その意味で、本書はひとり忠臣蔵という物語に焦点を当ててはいるものの、物語や宗教、イデオロギーや陰謀論といった様々な共同幻想がどのように形作られ、またそれがいかようにして人の心を捉え続けているのかという一つのアーキタイプとその分析として、非常に得るところの多い一冊と言えるのではないだろうか(それはもちろん、ナショナリズムの成立過程を記述したアンダーソンの『想像の共同体』、歴史修正主義を扱った小熊英二の『癒しのナショナリズム』、反西側諸国的発想に由来しウクライナ侵攻の背景ともなるアレクサンドル・ドゥーギンの「ネオ・ユーラシア主義」などにもつながるわけである)。
以上。
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