■炎のクリエイター日記

美味しいもの・史跡が持つ歴史のご紹介。お料理はプロ・自作を問わず鮮明な画像で、どんな素材も関西仕立てにクリエイトします。

炎のクリエイター 撮影 & 画像補正

このブログに使用の画像は、「CANON一眼」と「CANON Power Shot G7XⅡ」と「iPhone12」などの撮影機器画像に補正を施してあります。画像補正は、とっておきの一枚を奇麗にできます。 ※画像の転載・転用は禁止させて頂きます。 びわ湖の名所「あのベンチ」は、自転車でびわ湖を一周する時に、どこかにあるという秘密のポイントとなっている。場所は誰もあかさないのがルールで、びわ湖一周(びわイチ)すれば自ずとわかる理屈だそうだ。 ※撮影依頼・画像補正や、掲載画像をご使用希望の方はメッセージにてご連絡ください。

明智光秀の坂本城跡 ~家康への接待で出された鮒ずし~

2021年11月27日 14時45分47秒 | 史跡・歴史巡り
びわ湖の水位の低下は雨不足が原因で-60センチを割って、ますます深刻さが帯びてきた。そんな中でも水位の低下に伴って、明智光秀公の坂本城跡の遺構が姿を現すというびわ湖畔。マニアックな歴史好きの方・ゲームでの光秀公のファン・大河ドラマ麒麟のにわか歴女の人達で連日にぎわっている。近江の郷土料理鮒ずし。



家康公の織田方接待役と命じられた光秀公は、近江の郷土料理であるびわ湖産の、コイ・カモ・ウナギ・ツルなどを始め、珍味の「鮒ずし」までコースに盛り込んでいたとある。一説では鮒ずしの匂いで、魚が腐っていると難クセ付けた信長公が、光秀公を叱咤したとあるが、それらはNHK大河ドラマの創作で、信長公・家康公は絶賛したと書面で残っている。


▲坂本城の想像図




坂本城跡の遺構を確認してきたが、なんだかチンケで目を疑うばかりだ。光秀公の名誉のために坂本城の想像図を添付しておくが、びわ湖の湖面に浮かぶ壮大な水城だったことが判る。格式や美的感覚に優れている光秀公が「見事なお城だ!」と絶賛したくらいであるから、きっと想像図のような感じだったのだろう。







想像図で見れる坂本城の見事な城門は、現在は「西教寺」の山門となっている。信長公の叡山焼き討ちからの復興に、積極的に取り組んだとされている光秀公だが、その木像が祀られているのも証しだろう。しかし、坂本城跡公園にある光秀像には、何度会っても「プッ!」と吹きだしてしまいそうな5頭身像に驚かされる。


▼これが問題の水位が下がると出てくる基礎石かな?




かの名言「敵は本能寺にあり」も「ときはいま天がしたなるさつきかな」の俳句も、総てNHK大河ドラマの作り話なのでお間違えの無いよう。本能寺の変の本当の理由は、光秀公が親戚づき合いしていた、四国の覇者である長曾我部元親の討伐予定を潰すためだったと推測できる。好きなことを文にするのはスラスラ浮かんできて、明智ブログ更新は15分で書き上げた。


▲埋まっていた地蔵さま ▼西教寺の山門なぜかフォーカスをかけてしまった






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屋形船「四季」瀬田川桜クルーズ ~船上からの絶景~

2021年04月02日 14時18分33秒 | 史跡・歴史巡り
瀬田川沿いのお散歩コースから、愛犬のモンちゃんと一緒に川面を眺めているので知っていたが、最近は優雅に遊覧する屋形船を見かける。このたび縁あって、撮影したので皆さんにもご紹介したい。乗船前には検温・手のアルコール消毒をしたうえでの遊覧となり、冷暖房完備の船内テーブルにも消毒用アルコールが常備され、シッカリ感染症対策がとられていた。奇麗なおトイレも最近では気になるポイント。









現在は屋形船「四季」瀬田川桜クルーズとなっているが、次回の企画はびわ湖へも出ていく予定だそうで、江戸時代の歌川広重(浮世絵師)で有名な「粟津の晴嵐」など歴史的な風景も見られるだろう。この日は天候に恵まれていたので、甲板にあがり新鮮な空気を胸いっぱい吸い込めば、吹き抜ける春風が最上級に気持ちよかった。











船上からの遊覧は、桜に覆われた「石山寺の山門」「瀬田の唐橋」など歴史的な名勝も普段とアングルが違うので新鮮だ。唐橋などは下を潜るので橋の裏っかわまで見えるってことで、歴史に反して鉄骨が使われている現実も見えてしまうのが何とも。











ちなみに本来の持ち込みはNGということで、お寿司はワシのお弁当で、北海道限定販売のサッポロクラシックや、じゃがポックルは、5月末まで「北海道クルーズ」を開催しており、北海道でしか味わえない味覚も楽しめる。乗船は計2回乗っけてもらい、感想は撮影というよりは気分上々の息抜きであった。











■屋形船「四季」瀬田川桜クルーズ
・大 人:2000円
・こども:1000円
・ランチ便(10名から):お一人さま5000円~
・ランチ便(20名から貸し切り):お一人さま3000円~
・お問い合わせ:077-572-6848




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上田城 ~真田色は残っているのか仙石上田城~

2018年07月08日 20時10分43秒 | 史跡・歴史巡り
信州の「上田城」は、真田昌幸によって築城(1583年)された難攻不落の城として知られている。太郎山・大峯山・虚空蔵山などを背に、南面は千曲川を堀に見立てた自然の要害となっているが、いざ戦になると敵の進入路である神川沿いで陣を張り、上流の堰を切る秘策も使って迎え撃ったようだ。


▲東虎口南櫓と櫓門

▲東虎口前の真田石。信繁が父の形見と持ち去ろうとしても動かなかった逸話がある

▲東虎口左から南櫓と櫓門と北櫓

千曲川の緩やかで深い分流があった南面は、崖面がもろく崩れやすい性質だったことから、築城以来は常に石垣補強や保護対策が行われ、結果的に見事な石垣が設置されて残る形となった。この厄介な場所を「尼ヶ淵」と称したことから、上田城は別名尼ヶ淵城とも呼ばれ、江戸時代から現存する「西櫓」と、明治に復元された「南櫓」が防御の要だったようだ。


▲尼ヶ淵から見た唯一現存する西櫓

▲尼ヶ淵から見た南櫓 ▼南櫓から見た東虎口櫓門への入場口


二度に渡って攻め入った徳川軍を凌ぎ切った「第一次上田合戦(1585年)」と「第二次上田合戦(1600年)」は、知っておきたい実戦の歴史である。この戦の采配は、父「真田昌幸」が、長男「信幸(信之)次男「信繁(幸村)の、二人の息子を従えて戦勝したとある。但し、第二次の信幸は徳川に加勢したものの、それは真田家を存続させるための昌幸の策と伝わる。


▲上田城の見取り図 尼ヶ淵の芝生は当時千曲川分流だった

▲東虎口南櫓から尼ヶ淵をのぞき込む ▼尼ヶ淵から上がってくると最後に石垣が立ちはだかる


関ヶ原の合戦後「真田上田城」は、徳川の腹癒せで徹底的に破却され、残念ながら真田色はお城の縄張り以外は一掃されたとある。その後の城主には、徳川に加勢した長男 真田信幸となり、さらに豊臣系出身の仙石氏が三代に渡り城主を務めたようで、仙石氏時代の城普請は、昌幸時代の備えに沿って7基の櫓2基の櫓門を再現して防御力を高め、仙石上田城を完成させ現在に残るとあるが、当時の櫓でさえ「西櫓」のみが残っただけで、残念ながら真田色は更に薄くなった。


▲どこもかしこも真田六文銭の紋所だらけ

▲真田の赤備えである兜のモニュメントにも六文銭の紋所

▲上田城金箔鯱瓦



■興味のある方は載せきれなかった画像がありますので是非■




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松本城(国宝)~連結複合式天守閣の持つ意味~

2018年07月05日 15時46分24秒 | 史跡・歴史巡り
長野県松本市には、現存天守閣を有する「松本城(まつもとじょう)が、日本アルプスの山々を背景に、戦国時代特有の黒色を基調としたコントラストが映えて、見事な景観を披露している。五重六階建造の連結複合式天守閣としては、日本最古の安土桃山時代末期~江戸時代初期の建造と見られている。







建造当時から永年にわたり「深志城(ふかしじょう)」と呼ばれていた松本城は、国内現存天守閣12城の中でも、姫路城・犬山城・彦根城・松江城などと共に、国宝五城に指定されている。感無量な心境で「連結複合式天守閣」を眺めれば、大天守に寄り添う乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の総合的な雄姿は、実にアンバランスだ。







お城の象徴である天守閣は連結複合式で、敵を迎え撃つ実践的な「櫓」や「各種狭間」や「石落とし」など、戦国時代の騒乱の渦中を守り抜く工夫が施されているにも拘わらず、一切の防御に不向きで窓などが開放的な風流な遊興じみた部分での工夫がある「月見櫓」が両立されている。従って乱世から泰平の世の中へ移り変わる中で、時代の流れに応じて活躍したお城だと推測できる。







松本城の歴史は、信濃の守護だった小笠原氏によって深志城が築城され、武田家馬場氏、織田家木曾氏、上杉景勝氏、徳川家小笠原氏にいったん戻るも、松本城と名を改めてからは、豊臣家石川氏、初代の小笠原氏、徳川家松平氏・水野氏らが、転々と城主を入れ代わり立ち代わりで担ったとある。


▲天守閣最上階より見た「東側」

▲天守閣最上階より見た「南側」

▲天守閣最上階より見た「西側」

▲天守閣最上階より見た「北側」 ▼天守閣最上階の屋根裏


明治30年頃に、天守閣が大きく傾いて「松本城」最大の危機を迎えたが、地元保存会の尽力で明治と昭和の大修理を経て、堂々とした天守閣を今に残す歴史がある。










■興味のある方は載せきれなかった画像もあります■




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彦根城 ~現存天守12城のなかの国宝五城のひとつ~

2018年05月29日 20時30分40秒 | 史跡・歴史巡り
天下分け目の関ヶ原の合戦で、大勝利をおさめた東軍の大将「徳川家康」は、反旗を翻した石田三成の居城(佐和山城)を一掃し、同時に西国の豊臣恩顧の大名達に睨みを利かせるため、女城主直虎(NHK大河ドラマ)でお馴染みの徳川四天王のひとり「井伊直政公」に彦根城築城を命じた。18万石をもって彦根城築城(1604年より約20年の歳月をかけて完成)の許可を与えられた井伊公は、その後の勢力情勢の推移にも上手に立ち回り、当時の建造物である天守閣を現存させて今に残す。







金亀山に聳え立つお城であることから別名「金亀城(こんきじょう)」とも呼ばれている「彦根城天守閣(国宝)は、姫路城・犬山城・松本城・松江城と並んで、日本の現存天守閣12城のなかでも国宝五城のひとつに指定されている。地元ということもあって、ワシはそこらのボランティアガイドよりも詳しい知識を持っているので、チラチラご紹介しつつ進めていきたい。







いろは松が立ち並ぶ「佐和山口」から、井伊直弼大老の銅像を右に見て「佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら・国宝)横から表門橋を渡るルートで、敵兵になったつもりで侵入する。佐和山城から移築された防御に秀でている多聞櫓は、周囲のジグザグ通路を侵入する際、無数に開けられた矢狭間・鉄砲狭間などから、敵兵を後ろから狙い撃てる仕掛けが施されている。外壁は完全修復されているが、櫓内の創りは極太の梁など当時を偲ぶ面影が残る。


▲▼いろは松は藩士の名前を松につけ責任もって世話をさせたので大きく育った

▼佐和口多聞櫓(国宝)奈良多聞城の松永久秀が作った4階櫓が素晴らしく各お城は真似て「多聞櫓」を作った



▲佐和口多聞櫓の梁も国宝だけあって素晴らしく立派

▼この場所で敵兵は後姿を見せるので佐和口多聞櫓から狙い打ち




もうひとつの城への経路に、京橋口から大手門橋を渡って侵入してくる兵と、鉢合せする恰好になるのが、「天秤櫓(てんびんやぐら)の真下で、長浜城の大手門が移築された天秤櫓には、下の通路こそ大掛りな堀切(敵兵の侵入を防ぐ人為的な堀)になっている。上にかかる「廊下橋」は、天秤櫓・本丸へと敵兵が攻めこもうとすると、橋そのものを崩して落とす仕掛けもあるので、この天秤櫓が彦根城の守りの要となっている。この周辺が時代劇に数多く出てくる場所だ。


▲いざとなれば廊下橋は落とされる

▲左右対称なことから天秤櫓と名がついている。ワシの目には左の方が重そうだ

▲もちろん廊下橋を渡ってくる敵兵は格好の的になる


天秤櫓の下の石垣は、時代によって積み方が違った「野面積み」と、古い時代の「牛蒡積み」にクッキリと分かれている部分があり、表面積は小さい石でもゴボウのように細長く奥深く積んでいる「牛蒡積み」の方が頑丈な積み方だと言われている。櫓の左右がほぼ対象で、つり合いが取れそうな天秤のような姿から、天秤櫓の名がついたようだが、敵兵がこの難関を通過できないと本丸への道は閉ざされる。


▲廊下橋の真下は牛蒡積みの石垣で、左側は時代が新しく野面積みの石垣だが

▲左側の野面積みより、牛蒡積みの方が頑丈だと言われている

▲天秤櫓の右横から石田三成の佐和山城跡が覗いているのは何かの因縁?

▲天秤櫓から本丸方向を見上げる ▼天秤櫓には井伊家の「井」のマークが


順序に逆らって、搦め手(裏口からの攻撃兵)が侵入する場合には、びわ湖側の見張り塔の役割も果たしている「西の丸三重櫓」がある。この建造物は、一説では小谷城の浅井長政が生活していた本丸だったと云いつたえがあるが、それを一旦長浜城へ移築されたのちに、再び彦根城へ移築された経歴を持つ。




▼▲西の丸三重櫓まで辿りつくには幾重にも石垣が



▼▲西の丸三重櫓の下には天秤櫓の下より深い堀切がある


西の丸三重櫓の前には、天秤櫓のものより深い堀切が侵入を阻み、道なき道を攻めあがろうとすると、日本でも現存が珍しい「登り石垣」が、重装備の鎧兜をつけた武者を阻む険しいものとなるよう仕掛けが設計されている。


▼西の丸三重櫓の梁は、浅井長政が眺めていたものだろうか

▼西の丸へ続く山には、全国的に珍しい「上り石垣」がまともな形で残る。案外ガイドさんも触れないスポットだ

▼この「上り石垣」が攻めるお城の山中にあると、約30キロの甲冑を装着している武将はたまらない

▼上り石垣を数か所探すだけでも苦労したので、乗り越えて行けと言われると更に大変そう


さて天秤櫓側に戻って、攻め進むと長浜城もしくわ佐和山城から移築された「太鼓門櫓(たいこもんやぐら)があり、城下側の壁を作っておらず、中で太鼓をたたくとメガホン効果で、城下の隅々まで音が鳴り響く仕掛けだったとある。今は壁も作られ、単なる櫓としての役割をする建造物のような趣だが。







更に石段をあがると、本丸跡と当時の「現存天守閣(国宝)が聳え、寄り添うように「附櫓(つけやぐら・国宝)が建造されている。京極高次が城主を務めた「大津城」の4重5階の上3重部分を移築した天守閣は、通し柱を使わず各階ごとに積み上げられ、3層3階地下1階の複合式で各重なりに千鳥破風・切妻破風・唐破風・入母屋破風を詰め込んだように、天守閣品評会のように配置しており、色々な表情を見せるので風格がある。







さて、お得意の石垣を解説する。基礎は「牛蒡積み(ごぼうづみ)なる石垣で支えられていると推測されていたが、近代(H17年)になってNHKのセンサーカメラが石垣内部へ入ったところ、牛蒡済積みだと思われていた石垣は僅か数十センチの薄っぺらな石であることが確認され、石垣フェチの歴史ロマンを打ち消した。牛蒡積みとは、ゴボウのような細長い大小の自然石を、縦横に組み合わせた組み木のようで、表面に出る石面は小さくとも、奥まで長く続いているんで、非常に堅固で頑丈な石垣と言われていた。




▼恒例の石垣補強を施してきた


天守閣の中へとはいると、地下一階からクネクネ曲がった極太の梁が、縦横無尽に組み上げられており、各階をつなぐ階段は急こう配で、敵兵が登ってきても蹴落とせるし、階段自体も蹴り崩せる仕掛けとなっているようだ。最上階からは竹生島も見え、びわ湖からの水軍による攻撃も監視できるような眺望であった。各地の現存天守閣を見ていて一度も戦闘が行われていない彦根城ほど、保存状態というか奇麗な状態で残っている天守閣は珍しい。是非訪れ見学されることをお薦めする。




















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青鬼まつり ~今週の第三日曜日の9時半から~

2018年05月18日 16時05分15秒 | 史跡・歴史巡り
毎年5月の第三日曜日に、石山寺では「青鬼まつり」が行われる。約800年前に「朗澄律師(ろうちょうりっし)」なる高僧が、石山寺に伝わる重要な経や、膨大な経典を後世に伝える功績を遺すと共に、死後は青鬼の姿となって庶民を守ったという云いつたえから始まったようだ。





現在の門前には、先日から杉の青葉で作った迫力ある「青鬼(迫力を意識して撮影)」が赤フン一丁で陣取っているが、お祭当日9時半には、体長5mにも及ぶ青鬼の前で法要が行われた後に、大うちわによる「降魔招福の風の授与」が行われる。青鬼の着ぐるみなども現れ参道をお練りする姿が見所のようだ。







京阪石山寺へ続く石畳の道中に「蕎麦処 すみ蔵」がある。本格的な蕎麦が楽しめるほか「すだち蕎麦/1180円」のような夏期限定のメニューもあるが‥‥‥現在は夏期?あるかどうか不明だが、好き好きではあるものの、一度経験しても良い味なのでお薦めする。







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しがらき陶器市 ~信楽焼の即売会・大アユ塩焼き・ワカサギの天ぷら~

2018年05月05日 20時34分23秒 | 史跡・歴史巡り
滋賀県の信楽町は、平城京と平安京の間に、僅かの期間で奈良の恭仁京の離宮として「紫香楽の宮」があって発展した町で、かつては縄文時代から弥生時代の生活痕跡も出土されたり、古墳群も多くみられる歴史ある街なのだ。今年もゴールデンWの時期に「第24回 春のしがらき駅前陶器市」が開催された。





信楽の資料館には、室町時代の陶器も残されており、おごそかに展示されている。



忍者の里である甲賀・伊賀が近い事から、鉄道ファンの通称「撮り鉄」と呼ばれる人には大人気の、「忍びトレイン」も信楽高原鉄道で走っている。



信楽の初代狸庵「陶芸家 藤原鐵造」が、不思議な月の光に照らされて、狸がポンポコと腹鼓を打つのを目撃したという夢のような体験をしたことから、自分で小狸を飼って観察した末に、本格的な縁起物のお狸さんを焼きだしたのが「信楽のお狸さん」の起源のようだ。







しがらき陶器市では、立派な陶器の即売会から半端物陶器の掘り出し物や、地域の食べ物と珍しい食材などなど、ワシは「大アユの塩焼き/500円」を目的にもしているんで、アユのお腹をひとかぶりすると、卵がぎっしりコレステルールの塊のような超珍味が味わえる。



サクサクとクセのない「ワカサギのから揚げ/400円」は、コスパも味も最高なのにビールが飲めないぃ~~! 今回は、総てiPhoneでの撮影だから、ブレないように気を付けて撮影したが‥‥‥。









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松江城 ~国宝に認定された現存天守閣・乱世の要塞型~

2018年04月12日 20時36分48秒 | 史跡・歴史巡り
山陰地方では、唯一の現存天守閣が残るお城「松江城」は、平成27年5月15日に従来の姫路城・彦根城・犬山城・松本城に続き、国宝4城への仲間入りし、全国で計5城が国宝天守閣となった。松江城天守閣の外壁の大部分が黒塗りの豊臣風で、夜間に天守閣が発見され難いような実践的な造りとなっている。









天守閣は重厚な5層6階で、城内からは松江の城下が一望出来るように、最上階は望楼式になっている‥‥‥順に東西南北。木彫りで銅張りの高さ約2mあるシャチホコは、現存しているシャチホコでは最も大きなもので、名古屋城の金のシャチホコが思い浮かぶけれど、希少価値ではこちらに軍配があがる。









豊臣政権の三中老であった「堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、武闘派武将の草分けであったが、秀吉亡きあとは徳川に寝返って功績を挙げたため、領地拝領~築城開始(1606年)で、5年の歳月をかけ完成した。「松江城(千鳥城)」は山陰で唯一の現存天守閣が今に残る城となった。暫し松江城を守る見事な石垣をご覧あれ。













国宝「松江城」の天守閣は、桃山初期の城郭を思わせ、華やかさこそ無いが実戦本意の造りとして知られている。これは同時に乱世仕様の、敵を迎え撃つ鉄砲狭間を始め、石落としの仕掛け扉、武者隠しの間など、実質的には要塞型と言うことだ。ワシが訪れたときには修理中で立入禁止の鎖チェーンも目立っていたが、このような修繕がなされて初めて国宝とされたのだろう。













堀尾公から京極公を経て、徳川家康の孫にあたる松平直政公から以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を迎えることとなる。明治政府の廃城令に従い、城内の建物は天守閣を除きすべて取り壊され、天守も米100俵(180円)で売却される寸前に、有志の保存運動で救われたという。7代藩主「松平不昧公」は、茶の湯の精神を元に和菓子の発展にも貢献しており、城下における文化も担ったほど茶道に精通していたらしい。











松江城を国宝認定するのなら、福井県の「丸岡城」も、福井大震災により天守閣が倒壊した際に取り消された国宝指定を、再度認定してはどうだろう? 当時の建材で復元・建て直したが、国宝認定が取り消されたままとなっている。丸岡城も当時を偲べる立派なお城なので、関係者の方々が再認定されたうえで補修予算を活用し、後世に立派な形で残されることを切望する。


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又兵衛桜はしだれ桜の古木 ~遅咲きも 威風堂々 春の陣~

2018年04月04日 20時33分30秒 | 史跡・歴史巡り
奈良は宇陀の山里にある雄大なしだれ桜。この「本郷の瀧桜(たきざくら)」は、樹齢300年と伝わるしだれ桜の古木で、通称「又兵衛桜(またべえざくら)と呼ばれ、威風堂々と石垣の上に仁王立ちしている。幹周り3m・高さ13mで、戦国武将「後藤又兵衛」が余生を過ごした屋敷内に咲くことから、又兵衛桜の名がついた遅咲きの桜をご紹介。



単独で咲いているしだれ桜の古木が、開花時期の数日間で観光客を約6万人集めるそうだが、近年は風格と美しさの噂がさらに広がり、各地からの観光客で大賑わいとなっている。脚光を浴びだしたのは、かつてのNHK大河ドラマ「葵徳川三代のオープニング」に映し出されてからのことだ。





戦国武将で豊臣の家臣「後藤基次(ごとうもとつぐ)は、通称「槍の又兵衛」と呼ばれ、昨年の大河ドラマ真田幸村での、かぶと虫好きの哀川翔さんが演じていたイメージとは程遠く、ホンモノは豪傑かつ勇猛な武将で、大坂夏の陣で討死したのが大方の史実であるが、生き延びて余生をここで暮らしたという伝説と、屋敷跡・敷地内の桜と共に実在して残っている。



宇陀には、隠遁生活のあと一生を終えたという伝説が残るが、大分県中津の耶馬渓には、豊臣秀頼を九州へ逃がしてから亡くなった「後藤又兵衛の墓」も残っている。戦死した基次は影武者だったという切望論からの話か、本当にそうなのかは知る由もない。幸村の家康本陣攻撃の際、逃げ回る家康が又兵衛に討たれ、堺の南宗寺には「家康の墓」も存在する。影武者の多かった時代に、徳川幕府を開いたのは、影武者の方だったみたいな‥‥‥家康に於いてはあって不思議のない話だろう。





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南禅寺界隈の桜の古木 ~風流で趣きある盆栽のよう~

2018年03月31日 20時46分05秒 | 史跡・歴史巡り
先日ご紹介した「びわ湖疎水」を、京の都へ通すにあたって、ルートの計画に入ったのは「南禅寺(なんぜんじ)を横切る格好で、これには相当な周囲関係者の反対があったようだが、たび重なる疫病・流行り病の撲滅という大義の前に反対の声はかき消されたようだ。今では横切る水路も南禅寺に欠かせない名所となっているのが皮肉なものだが‥‥‥てなわけで桜の古木に拘ってのご紹介。


▲向こうに見えるは南禅寺の勅使門

▲駐車場に一番古そうな桜の古木

▲南禅寺の敷地を横切る水路

▼南禅寺の中門


勅使門あたりの参道から、桜の古木が顔を揃えているので、これもまた風流と、インクラインの付録のような形でご紹介する。桜の種類や名前なども付けてあるかも知れないが、そんな知識はワシには無いので、それぞれ自分でネーミングは、鶴亀の桜・伏見桜・勅使桜・清涼桜・見返り桜など盆栽のように風流。


▲塚のような小さなお堂がある横にも

▲枝垂桜と松のコンビネーションが良い感じ

▲向こうに見えるは南禅寺の三門


また湯豆腐は、南禅寺周辺参道の精進料理が起源で、お出汁の昆布を北前船で運んだと言うが、その帰りの便には逆に「南禅寺豆腐」が運ばれ、山形県の酒田市・鶴岡市には伝わって今も南禅寺ブランドがあるようだ。参道脇の豆腐料理「順正」の豆腐は、一般の豆腐に比べて数段美味しいし、お値段の方も「豆腐丼/2800円」と立派な設定だが感想は人それぞれ。


▲▼豆腐料理「順正」の店先

▼順正の「豆腐丼/2800円」

▼金地院側の桜と順正の幟





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インクラインは桜の名所 ~傾斜鉄道跡地が、お花見スポットに~

2018年03月29日 21時00分30秒 | 史跡・歴史巡り
京都には「蹴上インクライン」という桜並木観光スポットがある。インクラインという運河の工程の中の一部分で、明治中期から昭和の終戦直後まで、実際に稼働していた「びわ湖疏水」を利用した舟運ルートのシステムのことだ。滋賀から京都まで荷を運んだのちの舟を、高低差がある滋賀へ引っ張り上げるシステムを「インクライン(傾斜鉄道)と呼ぶそうだ。









近江のお米を伏見の酒屋さんまで運ぶと同時に、伏見からは出来上がった清酒を近江へ運ぶといった用途などもあり、本来の目的のびわ湖疎水自体は、水不足による京都の疫病蔓延を阻止するのに多大な貢献をしたとある。びわ湖の自然の恵み無くして、近代の京都は考えられないのだ。平和な京都で、串カツとおむすびだけのビールランチを楽しんだ。ワシは何十年も以前から何回も通って撮影・お花見などを繰り返しているが、恥ずべき大きな勘違いをしていたのだ。













このセンターに幅狭く走っているレールが、本来の鉄道だと勘違いしていたワシは、まさか大外にあるレールと、センターの2本のうちの一本が対になっているとはつゆ知らず、単線ではなかったのだ。来られていた観光客の方にお聞きすると、その方もセンターの二本が対だと思っていたそうで。(笑) 暫し、蹴上インクラインの桜並木観光スポットをご覧あれ‥‥‥。






















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丹波亀山城 ~明智光秀への誤解をとく城址~

2017年07月13日 21時06分53秒 | 史跡・歴史巡り
信長の天下布武の号令に合わせ、明智光秀が丹波攻略の拠点として「丹波亀山城(現亀岡)は築城された。本能寺の変の際には、光秀の軍勢はここから中国毛利攻めに向かって進軍する予定を、「敵は本能寺にあり」と本能寺へ向かったことで有名だ‥‥って、あの名言はNHKの大河ドラマが創作したものだが、妙に解りやすいので敢えて引用した。

■内堀の外から天守台付近を望む。


■この上の新興宗教の館があるところが二の丸だろう。


■尾根をわざと断ち切った防御「掘り切り」の名残り。


■当時この橋は木造で有事の時は焼き払う。渡ったところが太鼓門跡。


信長没後は、豊臣の支配を経て、徳川の江戸時代には天下普請により、藤堂高虎の縄張りで大修築が行われたのが今も姿を残す「丹波亀山城跡」で、今は無き天守閣は3層から5層5階の立派なものに改築され、3重の堀を持つ城下町が整備された記述がある。明治の廃城令で建物は破却、土地は新興宗教団体が買収し、当時の遺構は壊された。

■三の丸から大手門へと続く。この先に京口があり馬出しだったと推測できる。


■くぐりを進むと本丸跡・天守閣跡へと続く。


■籠城戦時の井戸は飲料水確保で最重要。


本丸跡の方角へ進もうとすると、掘り切りの名残を残す石垣を発見。尾根を仕切るように作られた堀を「堀り切り」と呼んで、敵側の攻撃をここで防ごうという仕掛けである。丹波亀山城の天守閣や石垣は、明治の廃城令に従った破壊などがあって失われているも、いま見られる石垣は、藤堂高虎の監修によるものが僅かに残るのと、戦後に新興宗教の信徒達の手により復元・積み直しなどがおこなわれたとある。

■天守台の全容は、新興宗教の聖域に阻まれ下からしか見られない。


■本丸・天守台の石垣は藤堂高虎積みで、上部になるにつれ急角度にそっくり返っている。




■珍妙な積み方の石垣は、宗教関係者の庫裏近くで自らが積んだものと推測できる。


本丸から更に奥へ進むと、天守台の石垣が待ち受けている。下3段程度は築城当時の石積みが残っているというが、最上段のそっくり返る藤堂高虎積みは、古さや馴染み具合から、当時の現存石垣積みであると推測できる。素人衆の信徒達が積めるものって、この庫裏の珍妙な石垣くらいだろう。天守台跡には、明智光秀手植えのイチョウがあるというが、新興宗教の聖域とやらに阻まれて確認はできなかった。

■この聖域とやらの「とうせんぼ」の向こうが本丸と天守台。


亀山城の本筋とは逸れるが、皆さんはどうも「明智光秀公」を臆病者と勘違いされている節がある。信長への謀反も、冷遇されたのが原因と思っている方が多いと思うが、ワシの見解は信長による比叡山に続く高野山の焼き討ち阻止と、下積み時代は越前朝倉家で光秀と親交もあった、四国を制圧した長曾我部元親への四国攻め阻止を阻止したかったのが真の狙いだったと推測できる。それを実証される記述もチラホラ発見されているにも拘わらず、大河ドラマ側は反映するそぶりも見せないのが不思議だ。

■苔でビッシリ覆い尽くされたところにキノコ‥‥。


■まるでお菓子の「きのこの山」みたいだ。



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真田信繁 幽閉の地 ~高野山 蓮華定院・九度山~

2017年06月20日 21時11分31秒 | 史跡・歴史巡り
高野山には、信州真田家の宿坊でもあった「蓮華定院(れんげじょういん)がある。西軍に属していた真田幸村こと真田信繁と、父=昌幸とが、上田の合戦で徳川秀忠率いる東軍本隊を足止めし、関ケ原の合戦に行けなくして戦勝したが、関ヶ原で石田三成率いる西軍本隊が、家康軍に敗北を喫して負け組となってしまう。この天下分け目の戦いは、数時間で勝敗を決したと歴史で習うが、一説では3ヵ月も続く激戦だったとある。





一方、東軍に組した兄=真田信之とは、直接の攻防はないにしろ、関ヶ原の合戦・大坂の冬の陣・大坂の夏の陣で、兄弟が東西に分かれて戦ったようだ。天下分け目の戦いに、東西のどちらが勝とうとも、息子のどちらかが真田家を存続させるような画策が父=真田昌幸にはあったようだ。





敗戦時に、真田昌幸・信繁父子が蟄居謹慎を命じられ、身を寄せた場所が「蓮華定院」だったのだ。山門には、同家の家紋である六文銭の提灯が下がる。下は高野山の山門。



高野山と九度山を結ぶ山道は、熊野古道と見間違うばかりの、高野参詣道・女人道があって、ハイウェイをバイクで45分のところ、ここを一歩一歩行くと何時間かかるのだろう?





真田家との縁の深さはあるが、幽閉された史実はわずかな期間で、不便なことを理由とし、麓の「九度山」へと幽閉場所を移されたとある。



木戸の家紋には六文銭と、結び雁が紋所の兄=真田信之の家紋が並ぶ。徳川家の重臣である本多忠勝の息女で、徳川家康の養女を正室に迎えた信之は、その縁で東軍の支持にまわった経緯がある。





兄=信之と、その息子=信政の五輪塔も「蓮華定院」に建てられ、死して初めて誰はばからず、親子3人が一緒に行動できるようになったようだ。





日蓮上人ご旧跡や、弘法大使ゆかりの龍光院など、歴史的にも奥が深い高野山。



麓の九度山では、真田衆の僅かな家臣の評判も良く、地元にも貢献していたようだ。しかし「真田十勇士」なる英雄伝や「真田紐」で収入を得ていたのは作り話のようだ。



従って大坂の陣へ出陣する真田信繁は、栄養も行き届かなく、白髪で歯が一本もない精気のない老人姿で、精悍な赤備えの甲冑は豊臣からの支度金で発注したようだ。





麓の村「九度山」では柿が有名で、真田幸村茶は柿の葉茶であるし、柿の葉寿司は保存食として、吉野川流域(紀の川)では有名だ。景色の画像は、上が高野山で麓が九度山、下を流れるのが紀の川だ。




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詫び寂びのティータイム無鄰菴 ~日本の美意識は静かなこと~

2017年06月04日 20時00分09秒 | 史跡・歴史巡り
京都の三条蹴上から下ってきた、南禅寺交差点の横に「無鄰菴(むりんあん)がある。実は、この無鄰菴と言う「山縣有朋の別邸」は山口県と、京都に二カ所の計三カ所にあった。長州藩の下級武士の息子として生まれたが、のちの内閣総理大臣となり日本の最高権力者まで上り詰めた男で、富国強兵策を推進し旧日本軍隊を作り出し、戦争への道筋を敷いた男なのだ。





第一の無鄰菴は、山縣の出身地山口県にあり、この草菴に隣家がないことから「無鄰菴」となったのが名前の由来で、第二の無鄰菴は、京都の木屋町二条の高瀬川二条苑を改修して作られたが、現在は寿司レストラン「がんこ高瀬川二条苑」となっている。そして第三の無鄰菴が、今回ご紹介する南禅寺の傍らに建てられたもので、京都を訪れることがあれば是非立ち寄って頂きたい。





無鄰菴は、明治の代表的造園家の小川治兵衛(植治)の作庭。特徴は、びわ湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園で、実物の京都東山の背景が庭園と一体化され、水の流れでゆったりとした曲線を描いている。京都のチマチマした街中にあるが、一切周囲の家々の存在を感じられないのが驚きだ。醍醐寺三宝院の滝を模した三段の滝・池・芝生を配した池泉廻遊式庭園は、現在も七代目小川治兵衛が手入れをしているという。



先日、ランチに恩師を招いた時の訪問だが、喫茶店やスタバは無粋だし、いくら味の良い老舗「上島珈琲」や「イノダ珈琲」でも慌ただしいのが実情だ。そんな折には、ワシはこんな「無鄰菴的」な庭園で、詫寂(わびさび)のティータイムとして抹茶を戴くことにしている。拝観料410円・抹茶400円を高いとみるか、風情があって良いものとみるか‥‥人それぞれだが、恩師は自然の涼風と畳の部屋に感動され、居心地が良いと2時間ほど昔話に花が咲いた。






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本能寺ホテル ~歴史フェチは生殺し~

2017年01月20日 21時52分29秒 | 史跡・歴史巡り
かねてから気になっていた映画「本能寺ホテル」を見てきた・・・普通の物語としては、面白おかしくドタバタっぽく作り上げていて、普通に惹き込まれるのだが、ひと度歴史の観点から見ると、いきなり四つ菱旗を立てる騎馬軍団との戦いが始まり、ナレーションもテロップも無いままであれば、最近のお若い方達は対戦相手を把握出来るだろうか?



ついに当日の「本能寺の変」がやってきた。ここでも、謀反人の背中がスクリーン一杯に映し出されるが、それは桔梗の紋どころだけで顔は映らない。これで明智光秀と判らなければならないし、随所に歴史の苦手な方はついていけない場面もあるような気がする。断っておくが「ホテル本能寺」とひっくり返せば、現在も営業のホテルが実在するのでご注意! それにしても予告が始まったのに、ワシから前は全席空席でポップコーンだけが目立った。



一方で、戦国時代のお話は、当然詳しく紹介されることはなく、現代と過去のはざ間を、行ったり来たりのヒロインの婚約話など、どうでもよい事のように思うのだが・・・・これも好みの問題だろうか? ついでに「食」のブログを毎度書かせて貰っている以上、本物の信長が実際に食べていたお膳をご紹介しておく。食材は、鶴・ひばり・キジ・鳩・びわ鱒・鯉・フナ・塩鱈・ハマグリ・サザエなどと、野菜や海草・ご飯類・麺類であった。

   


■あらすじ■

主人公の倉本繭子(綾瀬はるか)は、働いていた会社が倒産し、吉岡恭一(平山浩行)のプロポーズをうけ婚約した。恭一の両親の金婚式パーティーに出席するため、京都で宿泊することになったが、手違いで「本能寺ホテル」という聞いたこともないホテルに泊まる事となる。その本能寺ホテルのエレベーターは、戦国時代へタイムスリップできる不思議な空間だったのだ。繭子は知らずに、1582年6月の戦国時代の「本能寺の変」の前日へ迷い込み、ちょうど織田信長が本能寺に滞在していた。繭子は信長の家臣である森蘭丸(浜田岳)と、何回も顔を合わせるうちに仲良くなり、主人である信長の人格に惹かれていく。秀吉による中国大返しが実現した謎解きも意外なものであったし、歴史上で信長が殺される「本能寺の変」を未然に防ぎ、信長を助けようと奔走する。下の動画を見れば見たくなるかも・・・・。




・・・・・・・・・<切り取り線>・・・・・・・・・


第三土曜日は、奈良でお仕事のあと、プチ同窓生宴会に参加しますので、コメントへのお返事・訪問が滞る場合があります。まことに勝手ながら、留守中の応援を宜しくお願い致します。

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