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甲野善紀著『古武術に学ぶ身体操法』

2014年09月29日 | よみものみもの
書こうと思っていたテーマに関する助けがたくさんあったので、
覚え書きとしての抜き書きを。




昔はできたが今はスランプに陥っているという発想から脱しなければなりません。
 そして二十数年間、私にはスランプがないという話もしました。なぜなら
私はずっと自分の動きがまだまだだと心から思っているからです。私も、
自分の技について二割くらいの自信はあります。でもその程度です。
残りの八割は本当にだめな自分を認識しています。スランプがあるのは、
それまでのちょっと周囲よりはよかったという程度の、未熟な自分を
いいと思っているからです。私はそんなふうに考えません。
謙遜ではなく、心から自分の未熟さを感じているのです。
だから二十数年間、全くスランプがなかったのです。



 しかし、「人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である」
という結論を得たものの、それは頭で理解しただけのことでした。
 それだけでは生きていく上で力にはなりません。体感という感情レベルまで
納得した状態にならなければ意味はないと思いました。そこで、この考えを
通しても確信できるようにするため、私は武の世界にかかわることを
決心したのです。



 しかし、私の場合はすべて仮説で、自分の現在の考えに固執する気は
全くありません。それどころか、常に今の自分の考えをこわして、
また新しく次の術理を構築したいと思っているのです。



 身体と精神は密接です。例えばすごく愉快なのに、鳩尾(みぞおち)は
ぐっと固くなってくるということはありませんし、鳩尾は固いのに、
愉快だということもありません。逆に不愉快なのに鳩尾がゆったり
緩んでいることもありません。顔の表情は誤魔化せても身体の反応は
誤魔化せません。
 怖いのに、心臓がどきどきしないということはありません。これは
横隔膜が上がって心臓を圧迫しているのですが、それを意識的に
押し下げることができると、恐怖を感じないと言います。このような
レベルでの身体操作ができると、感情面でのコントロールも
できるというのです。
 整体協会の創設者であった故野口晴哉先生の話によれば、思考に
ゆきづまっているときは、手首が固くなるなどの症状がよく
現れているそうです。つまり、手首がこわばってくると、連想、
発想がうまくいかなくなるわけです。こんな時、肘湯といって
お湯で肘を温めただけで、頭の働きが変わってきたりします。
 もちろん精神が身体に影響を与えることもあります。
相互の問題です。
 薬などを用いず、人間の身体を調整することでは、この人の
右に出る者はいないとまで言われた天才野口晴哉の操法を
もってしても、なかなかこわばりを緩ませることができなかった
女の子が、突然すごくやわらかくなった。どうしたのかと
思ったら、結婚したいという男性が現れたということでした。
それはもうどんな操法も及びません。体の中からの喜びですからね。
愛する、愛されるという人間としての根源的なことに対して
自分の感覚が開けば、それに伴って身体も大きく変化します。



 人間の生活技術としての本能である文明や文化が、
農耕も行わない、行ったとしても、栗の木を植えた程度の
縄文文化どまりであったなら、人間がこれだけ環境を破壊し、
地球の癌と呼ばれることもなかったでしょう。これも、人間の
可能性という長所即欠点のひとつです。欲望にまかせて
前へどんどん進むことで、機械文明などの人間の創造物が
逆に人間の存在を冒しつつあります。人間のすばらしさが
諸刃の剣であることをどう自覚して、これからどうするかを
本気で考える時期にきていると思いますが、この先
どういう道をとったらいいのか、それは本当に難しい問題だと
思います。ですから、こういう時代になって、いっそう私は
「これが正しい」と言いづらいのです。このことは私の技についても
同じで、「この動きは以前に比べればより有効だ」とは言えますが、
正しいという表現はどうしても使いづらいのです。
 しかし世の中には、「これが正しい」と断定的にものを言う
人がたくさんいますね。私にはそれがよくわかりません。
もちろん、それが禅で見性(けんしょう)したときのような、
うまく言葉にならない感覚的な直感で言うところの
絶対的なものなら、そう言うのももっともかなと思いますが、
客観的本質的な意味で正しいかどうか判断するのは、本当に
難しいというか不可能としか言いようがない。それは
私の中に常にある感覚です。自分が常にいいとは思っていない、
だからこそ、次々に技が進展していくのだと思います。
そしてもちろん、そのことが正しくてよいことかどうかも
私にはわかりません。



 昔から子供を育てるコツとして、「少し飢えさせ、
少し寒くさせる」というのがあります。今の環境において、
何もかもが過剰になってきていることが身体に問題として
出てきていると思います。



 新しい発想を生み出す根底には、美意識がなければなりません。
本文の中でも話しましたが、私は中国武術にも関心を持っています。
しかし最終的に日本の武術にこだわりたいというのは、
日本の刀の美しさに対する愛着が自分の中にあるからです。
これはだれかから押しつけられたものではありませんし、
いわゆる「愛国心」の表れでもないと思います。政府が言っている、
今の学校教育などで「愛国心を育てる」などということが、
一見効果を挙げたように見えたとしても、戦時中「鬼畜米英」
などとののしっていた人間が、戦後一変して「ギブ・ミー・
チョコレート」と言って進駐軍に擦り寄った程度の根のない
愛国心を育てる程度の役にしか立たないでしょう。

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