犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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生まれかわる

2017年01月28日 | よみものみもの
[あらすじ] 二十代前半の友人は、いつか死んで無になるなら今生きているこの生は何?
と思いめぐらす。


死んで無になるのが怖いと私は思わないが、怖いという感覚もわかる。
魂を信じるが、それは無になるのが怖いからという理由ではない。
特定の宗教は信じていないが、神のようなものは信じる。
しかしそれはキリスト教で描かれるような人格的な神ではない。

生まれかわりを信じるが、今の仏教が言う輪廻転生とは違うようだ。
人間くさく生きていたら徳も積むが業も深まる。
天国地獄と振り分けられるほど人間は単純ではなかろうと思う。



3年前くらい前だったかに、シショーが言っていたことを思い出す。
「スープを飲まなければいいんですよ。」
何じゃそりゃ。
「知りませんか、森田健。」

森田健『生まれかわりの村』を読んでみた。
中国の奥地の村人が、死んだ後にまた別の村に生まれかわり、
前生の記憶を語る証言がいくつも紹介されている。
著者は何度も村を訪れ、何人もの生まれかわり経験者に直接取材している。

死んだ後に行った場所の様子が語られている。
そこは、天国のようなところでも地獄のようなところでもない。
スープを勧められるがままに飲むと、前生の記憶は消える。
そのスープを飲まなければ、記憶を失わないままにまた生まれることになる。
読んでいると、死後は生の続きであるという感覚が出てきた。

「スープを飲まなければ、今生で積んだ知識経験を次に引き継ぐことができます。」
とシショーが言う。
取材の中でも、前生の職業のおかげで今生も子どもの頃から裁縫が得意、
などというエピソードが紹介されている。

何度か生まれかわる中で積み重ねが利くんだったら、こんなうまい話は無い。
今の興味を持ったまま若者時代を迎えたら、かなり語学の勉強がはかどりそうだし、
男子の集中力を持ったら、楽器や何かの練習にかなり打ち込みそうだ。
しかし、生まれかわり続けて終わりが無い、という感じになったらそれはそれでキツかろうな。
何十年かで終わるくらいの人生が人には分相応なのかもしれない。

いや、そういう短い人生しか知らないからこんなふうに思うだけだな。
インドには(略。また今度ね)



秋に東京文化財ウィークのパンフレットを見ていたら、
「生まれ変わり」という文字が目に飛び込んできた。
なんと、わりにご近所多摩の日野で、生まれ変わりの物語があるという。
1800年頃のこと、程久保の藤蔵(とうぞう)は6歳の時に病気で死んだが、
12年後に丘ひとつ越えた中野村の家に生まれかわったのだ。

なんだ、中国奥地まで行かずとも、同じ話は近くにも転がってらあ。
よく知っている地名だ。
多摩動物公園の周辺だ。

映画『千と千尋の神隠し』の冒頭で、引越し先の風景に
程久保辺りの景色が使われている。
と、思う。映画を見ていて、見慣れた景色にそう思っただけで、確証は得ていないが。
映画の伏線として、生まれかわりの物語がある土地の景色を、
宮崎は使ったんじゃないだろうか。ひょっとして。

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