少し前になってしまったが、友人に芝にある増上寺を案内してもらった。
恥ずかしながら、初めて参拝したわけだが、まず、大きな山門に驚いた。
(増上寺 東京タワーと合う)
それもそのはず、ここは、上野寛永寺とならぶ徳川家の菩提寺だから当然だ。
この日は、残念ながら。
しかし、港区民祭りが開かれており実に賑やかだった。
この日は、将軍家のお墓が特別に公開されていた。
ここには、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の将軍と、
皇女和宮のような将軍の妻も眠っている。
(14代家茂公の墓)
(家茂公正室 皇女和宮の墓)
小生、幕末の時代は特に好きな時代。
その中で、徳川将軍の中でも比較的マイナーな家茂公は、好きな将軍の一人だ。
若くして傾きかけた幕府の将軍となり、第2次長州征伐のさなか、21歳の若さでこの世を去った悲劇の将軍だ。
そして和宮もまた、朝廷と幕府の橋渡しとして降嫁させられた悲劇の人物だ。
いわゆる公武合体の象徴で、婚約者がいながら、破棄され、家茂公に嫁いだ。
まさに激動の時代の悲劇と言える。
ただ、和宮にとっての救いは、家茂公が非常に優しい方だったようで、仲は良かったということだ。
家茂公は、また生き物が好きで、鳥や金魚などをかわいがったようだ。
しかし、激動の時代は、この心優しい青年を長く生かさなかった。
僅か21歳。あまりにも早すぎる死であった。
徳川慶喜には手厳しかったあの勝海舟も、この将軍の聡明さを褒めている。
残念ながらその能力を発揮することなく、去ってしまった。
そして、余りにも早く心のよりどころを失い、残された和宮も気の毒に思う。
家茂の死に詠んだ和宮の歌が、時代を経た今でも気持ちが伝わってくる。
この歌は、家茂が第二次長州征伐に出向く時に、「凱旋の土産は何がよいか?」と和宮に問うた時、西陣織を和宮は所望したという。
しかし、家茂は凱旋することなく、西陣織だけが形見として和宮の元に届けられた。
和宮は泣いたという。
そして和歌をそえて、この西陣織を増上寺に奉納したそうだ。
「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」
何と悲しい歌だ。
その和宮も、幕府が崩壊して約10年後の1877年 わずか31歳でこの世を去る。
和宮の遺言「将軍のお側に」がもとで、増上寺に眠っている。
恥ずかしながら、初めて参拝したわけだが、まず、大きな山門に驚いた。
(増上寺 東京タワーと合う)
それもそのはず、ここは、上野寛永寺とならぶ徳川家の菩提寺だから当然だ。
この日は、残念ながら。
しかし、港区民祭りが開かれており実に賑やかだった。
この日は、将軍家のお墓が特別に公開されていた。
ここには、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の将軍と、
皇女和宮のような将軍の妻も眠っている。
(14代家茂公の墓)
(家茂公正室 皇女和宮の墓)
小生、幕末の時代は特に好きな時代。
その中で、徳川将軍の中でも比較的マイナーな家茂公は、好きな将軍の一人だ。
若くして傾きかけた幕府の将軍となり、第2次長州征伐のさなか、21歳の若さでこの世を去った悲劇の将軍だ。
そして和宮もまた、朝廷と幕府の橋渡しとして降嫁させられた悲劇の人物だ。
いわゆる公武合体の象徴で、婚約者がいながら、破棄され、家茂公に嫁いだ。
まさに激動の時代の悲劇と言える。
ただ、和宮にとっての救いは、家茂公が非常に優しい方だったようで、仲は良かったということだ。
家茂公は、また生き物が好きで、鳥や金魚などをかわいがったようだ。
しかし、激動の時代は、この心優しい青年を長く生かさなかった。
僅か21歳。あまりにも早すぎる死であった。
徳川慶喜には手厳しかったあの勝海舟も、この将軍の聡明さを褒めている。
残念ながらその能力を発揮することなく、去ってしまった。
そして、余りにも早く心のよりどころを失い、残された和宮も気の毒に思う。
家茂の死に詠んだ和宮の歌が、時代を経た今でも気持ちが伝わってくる。
この歌は、家茂が第二次長州征伐に出向く時に、「凱旋の土産は何がよいか?」と和宮に問うた時、西陣織を和宮は所望したという。
しかし、家茂は凱旋することなく、西陣織だけが形見として和宮の元に届けられた。
和宮は泣いたという。
そして和歌をそえて、この西陣織を増上寺に奉納したそうだ。
「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」
何と悲しい歌だ。
その和宮も、幕府が崩壊して約10年後の1877年 わずか31歳でこの世を去る。
和宮の遺言「将軍のお側に」がもとで、増上寺に眠っている。
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