101年目の孤独 希望の場所を求めて
高橋源一郎
いい本だったなあとぐっときた。
「13日間で名文を書けるようになる方法」で、当時2才の彼の次男が脳症に侵される話がでてくる。
奇跡的に彼は回復できたのだが、その事件が著者に新しい視野を与えたらしく、彼の以後の作品はいかなるときでも目の前の人生を「生ききる」ことの賛歌がみられる。
いかなるとき―これは文字通り万人のいかなるときであって、したがって、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人々もここに入る。本書はそんな社会的弱者を取材する。その中には、まもなく死ぬことがわかっている人―それも、老人だけではなく子どもの場合もある―そんな過酷な運命にある子どもから、高橋源一郎は「生ききる」ことを学ぶ。
本書で圧巻だったのは小津安二郎の「東京物語」に材を借りた「尾道」の章と、それから「長いあとがき」だった。
いや、本書の他の章に現れる、ダウン症の子どものための絵画教室も、障がい者の劇団の話も、一般の学校に通えない子ども達とそのための学校の話も、心揺さぶれるに十分である。
彼らは普段なかなか社会の中で可視化されない弱者である。それゆえに、彼らの存在は特殊に映る。いや、社会の中で特殊扱いされる、といったほうが正確か。
その一方で、先に上げた「尾道」と「長いあとがき」の2章は、それこそ「弱者」とかなんとか定義は関係なく、これからすべての人にやってくる話を扱っている。
この二章に共通するのは「老い」である。
つまり、高橋源一郎は「尾道」の章と「長いあとがき」における「老い」の話を、難病の子ども達の話と同じ地平線上に入れているのである。
これが著者がなんとしてでも伝えたいことなのだろう。
超少子高齢化社会が進み老老介護とか、老老贈与とか指摘されている。
いま、日本の人口で80才以上の人口が930万人いるという。そして、10年後には80才以上の人口が2000万人くらいになる。国民の6人に1人くらいがそうなる。
アベノミクスや東京オリンピックや国土強靭化計画はあっても、日本全体が老いていくのは避けられない現実である。
つまり、「強くあれ」とひたすら進んで100年の近代化する日本、いまなお強くあろうと掛け声をあげる日本は、この先確実に老いていく。
日本は「弱く」なっていく。
だが、本当に「弱い」のか。
本書は、いま、社会で「弱い」とされる様々な人々を著者は取材している。
そこで見た光景。彼らのどこに弱いことがあろう。彼らの「生ききる」姿、彼らが目で見、耳で聞き、肌で感じながら、この世界をつかまえ、生ききる力強さ。これこそこれから「弱く」なっていく日本において、101年目の希望を見た。
いい本だったなあと心底思った。