読書の記録

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明暗

2008年05月07日 | 小説・文芸
夏目漱石---明暗---小説

 ネオリベラリズムと呼ばれる世の中である。格差社会なんてことも言われる。日本社会の「格差」は他国のそれとは比べ、遥かにレンジの狭いもので、過去がちょっと悪平等すぎたという説もあるけれど、時間軸で相対的に考えればジニ係数は確かに上昇している。どうしたって個人主義は勝ち負けが生じるし、それが個人の中でどのような怨念や嫉妬を巻き起こすかは誰だって多かれ少なかれ実感があると思う。不平不満感は募って権利意識だけが相当強くなる。結果的に「プライドは高く、忍耐力は低い」状態になる。

 100年前の日本にもこういうことがあった。明治の末期である。むしろ、現在の極端なプライドの肥大化と忍耐の無力化は、明治近代個人主義の100年後の姿ともいえる。

 で、夏目漱石未完の絶筆「明暗」。かつては漱石作品の中でも難解とされていたが、元祖ドロドロ昼の連ドラと言えなくもないぞ。だが、ここでは真正面に、「肥大化された個人主義がもたらす攻防」という視点で読み返してみる。そうすると、嘘か誠か、明治晩年を舞台にしたこの作品、道具立てこそ古いとはいえ、全て現代で通用するではないか。

 主人公である津田の境遇と心境は、「他人を見下す若者たち」の腰巻のマンガ(少年A「俺はやるぜ!し」少年B「何を?」少年A「何かを」)を髣髴させるし、津田の妻であるお延の「自分に都合よくことが進んでくれないことにその都度イラつく」様も、同情の余地は大いにあるけど、根っこになるのは「ワタシワタシ」の排他的利己主義だ。資産持ちが態度に表れる吉川、うだつの上がらぬ恋愛からあっさり玉の輿に切り替えた清子、そしてワーキングプアの小林。「明暗」全体が社会縮図となっており、登場人物はパラメーター化されて社会に投入されている。
 こうしてシミュレーション化された「明暗」の社会は彷徨し、出口がない。「明暗」の登場人物は個人を問われる。何を言うか何を選ぶか何を忌んで何を尊ぶか。そのときプライドと忍耐は天秤にかけられる。
 この閉塞感に満ち満ちた小説は、未完のまま誰も救済されずに断ち切られて終わる。


 それを引き継いで、絶望の淵に立った「お延」を、コペルニクス的転回ともいうべき心境の大逆転で救ったのが水村早苗の「続・明暗」。これは舌を巻く物凄い労作だったけれど、「明暗」のもうひとつの続編、永井愛の「新・明暗」もオススメしたい。大笑いできる。

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