読書の記録

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フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理

2008年06月21日 | マスコミ・報道

フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理---今橋映子---新書

 けっこう読み応えあった。
 扱っているテーマも報道写真でありがちな「やらせ」や「被写体の人権」の是非のレベルを大きく超えた、言わば「報道写真」が社会に放ってきたイデオロギーそのものに取り組んでいる。

 たとえば、ある文筆家が、なんらかの事件や事故を元にしたルポを書いたり、ある画家がその事件を扱った絵を描いたりすると、これは宿命的に、創作者の主義主張が、一定のフィルターとしてかかったものとして社会に受容される。
 一方で、「報道写真」というのは、その事件や事故を「客観的な現実を示す証拠」として受容され、特に、歴史的に有名な「報道写真」、ロバート・キャパやジョー・ローゼンタール・セバスチャン・サルガドらの仕事は、聖書的な地位にまであげられ、「時代そのもの」の「象徴」にまで上り詰めてメッセージを放った。
 著者の言うとおり、受けて側のリテラシーなくしては、報道写真はファシズム的なまでの威力と説得力を発揮する。

 しかし要するに、報道写真とは、「撮影物」を素材とした創造的行為であり、程度の差こそあれ撮影者や出版社による「主観的な」メッセージの伝達であり、その意味で、文章による著作行為やドローイングによる描画行為と対等の関係になる。

 というのは、いかに「客観的現実を示す証拠」であろうとも、そこには情報の取捨選択があるからだ。たとえばよく言われる「トリミング」や「画像修正」は、事実を歪曲するものとして、批判されることが多いわけだが、プリントの際に裁断しようとしまいと、撮影という行為そのものが、3次元的時空間の一部を2次元静止画に移すことに他ならない「トリミング」であり、本来そこにあった文脈を分断させていることにはかわりない。これは写真にまつわる昔からの永遠に課題だ。さらに、該当の写真を出版社や仲介者が次々と、撮影者の心積もりとは違う意味や文脈を持たせて流通させていくことも往々にしてある。

 しかし、だからといって「報道写真」は実際には「真実」など伝えていないから価値はない、と言いたいわけではない。そもそも「真実」とは何か、とは哲学的な問答で、簡単に答えが出るものでもない。文章や絵画が価値があるのと同様に、報道写真には間違いなく価値がある。
 
 では、報道写真の「価値」とは何か。
 報道写真の美しき価値とは、著者も指摘するとおり、「思考の契機(自らなんらかの問題意識を考えるきっかけ)」を与えるところだと思う。この意味でも、文章や絵画と対等の関係だ。
 しかし、この「思考の契機」となるところを、情報の送り手側に「思考の完結」を促そうとする意思が働いたとき、そこに歪曲行為が加わる。「偏向」とか「やらせ」とかの力学はここにあり、要するに「答え」を急がせたいゆえの暴走である。

 「報道写真」が「最も客観的現実を示す証拠」、つまり「思考を完結させるもの」として決定的な権威を持ってきたのは、その歴史が他のメディアに比べて非常に長いことや、保存・記録および、そこからの再現が容易であるところも大きいが、「報道写真」こそが特にジャーナリズムやヒューマニズムの問題意識を伝達する方法として、これ以上ないほど直截的でわかりやすいからだ。
 つまり、報道写真とは、ジャーナリズムやヒューマニズムの問題意識の「可視化(見える化)」なのである。


 逆に、昨今の「可視化ファシズム」とでもいいたくなるようなこの概念の大流行は、上記の報道写真と同じ問題をもはらむように思う。「可視化」されることによって、トリミングされ切り捨てられ、なかったことにされる要素(これは恐怖だ)、文章や音声記録では情報価値として値しないという風潮、「可視化」させたやつが勝ち、なんでも可視化しよう。こういった「可視化」の力は、時によって暴力にもなる。少し悪知恵を働かせれば、都合の悪い情報は見えなくしてしまえ、そうすればないのと同じだ、という方法論にすぐ行き着くからだ。逆に、どう考えても、あまり意味のない情報が「可視化」されることでさも重要な案件で、すぐさまなんとかしなければならないような雰囲気を帯びる。こういった「可視化」の操作を、

 情報発信者が戦略的に「可視化」を行って「思考を完結」を迫ってくるならば、受け手はあくまでそれを「思考の契機」として留まらせる意識を持たねばならない。何が可視化されなかったのか。可視化によって、何の答えを急ごうとしているのか。
 「見た目が9割」ということは、相手の思うツボということだからである。


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