読書の記録

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ぼくは落ち着きがない

2008年06月23日 | 小説・文芸
 ぼくは落ち着きがない ---長嶋有---小説

 最近、単行本で(つまり新刊で)小説を買うことがめっきり少なくなったが、なんだかピンときて手にとったら正解だった。

 とある私立高校の図書室と図書部員の小説である。図書「委」員ではない。図書「部」員である。両者の違いは、前者が誰かがしぶしぶやらされる類のものであるのに対し、後者は「部」であるから、原則として自ら望んで行っている。

 さて。この小説を読んで、20年前とほとんど同じ、つまり僕が高校生の頃と、今の高校生、基本は変わらんなーと思った(著者が同年代ということなのかもしれんが)。道具立てとして携帯電話とか裏サイトとか不登校とか出てくるが、この妙な空回り感は、激しく既視感を励起させる。


 僕の高校ではクラスの大半は、つまり学校の生徒の大半は男女問わず、「本を読まない」人たちだった(マンガ除く)。そしてごくわずか「本を読む」派が生息していた。
 もちろん、高校生活というのは多数決型民主主義であるからして、大多数の「本を読まない」人たちの中で、「本を読む」人というのは正しく少数民族であり、「本を読まない」平均的高校生から比べると、ヒトとナリ全てがやはりどこか変わっていた。したがって「本を読む」人は、この小説のコトバ通り「浮いた存在」になりやすく、図書室のカウンターの後ろは、男女や学年の別を越えた「各クラスでの異端者の溜まり場」なのであった。

 クラス内で目立たず、グループ分けでもあぶれがちで、体育祭や遠足のクラス写真ではほとんど写っておらず、息を殺しながら過ごしていた彼らが、その「溜まり場」では、水を得た魚よろしく、快活に談笑をしていたり、目を輝かせながらポスターを作っていたり、誰と誰がつきあっているなどとあったりして、その対比というか温度差が白々しいほど痛々しくもあった。

 ただでさえアタマでっかちな高校生にあって、「本を読む」派は、読書量だけはハンパなく多かったために、なんだか自分の思考に、自分の言語能力や身体や、あるいは社会との相性その他すべてがついていかないような人が多かった。だから、高校という舞台で、この図書室のカウンターの奥の狭苦しい空間は、理想と思想と構想と空想と妄想が臨界点を目指す、ちょっと異様な場だった、と今ふりかえってみて思う。ただ、文科系のなせる業なのか、それとも「異端派」ゆえの十字架か、どこかに「暗い影」があったのは否めない。


 そんな超アタマでっかちゆえの、おもしろうてやがて悲しき図書部員。中学・高校時代に「少数民族」だった覚えがある人には、なかなか切ない小説なのではないか。(逆に「多数派」だった人にはまったくちゅうぶらりんな小説かもしれん)

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