読書の記録

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この世界の片隅に(下巻)

2009年07月25日 | コミック

 この世界の片隅に(下巻)---こうの史代

 上巻中巻そのつどにレビューを書いた。下巻も刊行されてすぐに読んだ。
 もちろんとても感銘を受けた。落涙した。同時に大きな虚脱感も襲った。すぐに感想をロジカルに語る気になれなかった。そして、むしろなんだか整理し切れないもやーっとした感じも残った。
 下巻が刊行されて2か月くらい経つ。その間にネット上でも、リアルの場でも、この全3巻によせる書評や感想は多く出た。目につくものは読んでみた。多くは絶賛であった。僕もこの野心に満ちたこの作品に称賛を惜しまない。しかし、この「もやー」がやはり消えなかった。なんというか、単なる「戦争もの」についてお約束についてまわる平和や愛の大切さに終始してしまっては、この作品の肝心なところを見落としてしまっている気がしてならないのだ。戦時中のじみーな生活を再現させてみたところもこの作品の主眼のひとつであるが、それともまた違う何かが、この作品の本質を占めているという予感だけがあった。

 先だって、こうの文代の出世作の「夕凪の街・桜の国」と、一見その世界とは離れた「さんさん録」と「長い道」を読み返し、少しわかったことがある。

 僕がずーっと、そう上巻のときから気になっていたといえば気になっていたのは、主人公である「すず」のキャラクター設定である。「どこかぼーっとしていて、ドジで、なぜか日常生活の知恵はずば抜けてあって、そして案外頑固なところもある」。この設定、どちからといえば「萌え」とでもいったような、ある種の観念的な人物であり、あまりリアルでない。男性のある種の欲望の対象とはなりつつも、現実にこんな女の人はいない。
 が、実はこうの文代の作品は、この手の人格を持つ登場人物が主人公級を張ることが多い。「ぴっぴら帳」のミキちゃん、「長い道」の道さん、「さんさん録」の礼花さん、「街角花だより」の日和店長などがそれにあたる。
 が、これらの作品は、こうの文代自身の言葉を借りれば「ギャグ」路線の作品である。いわば、このキャラクター人格そのものが事件や事態をつくりだしやすい。

 しかし、もちろん「この世界の片隅に」はそれだけの話ではない。むしろ「この世界の片隅に」は、銃後の生活のリアリズムに満ち溢れ、戦争の影も回を進めるに従って色濃くなり、ドキュメントを下地にしたフィクションといって差し支えない。が、それだけに主人公「すず」だけが、奇妙に観念的な存在になる。まるで、実写映画の中で、主人公だけがアニメになっているかのような。
 僕が、なんだか「もやー」と思う座りの悪さを感じたのはこの点だったのである。で、先に言っておくが、この点こそが、この「この世界の片隅に」が持つ偉大な価値の真髄だったのである、と断言してしまう。

 広島原爆の被爆を扱った「夕凪の街・桜の国」の主人公は、「夕凪の街」の平野皆実と、「桜の国」の石川七波であるが、この2人は「すず」をはじめとするこの手の人格を持たない。つまり、「夕凪の街・桜の国」という作品のテーマにあたって、「すず型」の人物はむしろ逆作用しやすいということだ。
 ・・・・と当初は思っていた。が、むろんそうではないのである。

 確かに「夕凪の街・桜の国」の主人公は、平野皆実と石川七波なのである。が、よくよく読めば、「夕凪の街・桜の国」で、原爆の悲劇に始まったかのようなこの物語を、人を愛することの素晴らしさに昇華させ(桜の国(2)の圧巻な最終5ページ!)、あたかも福音のように我々に感動を与えるに至る中心人物は、皆実の義妹であり、七波の母である太田京花ではなかったか、と感じるのである。被爆の血を持ち、さらに蓋然的設定として在日朝鮮人の出と見られる彼女をめぐる博愛こそが、「夕凪の街・桜の国」を“単なる戦争もの”から逸脱させ、たぐい希れなる文学的境地に達した奇蹟の作品とたらしめている。
 で、この太田京花が、実は「すず型」の人物なのである。「どこかぼーっとしていて、ドジで、なぜか日常生活の知恵はずば抜けてあって、そして案外頑固なところもある」人なのだ。

 そこで、もう一度「この世界の片隅に」を考える。
 「この世界の片隅に」の下巻は、当然のように悲劇がたたみかけられる。すずの幼い姪は、焼夷弾の爆風によって命を奪われ、すず自身も利き手を失う。広島市内に住む実家の家族たちは原爆症の兆候を現しだす。玉音放送に混乱し、やり場のない感情に苛まされる。また、最後に孤児の子供を引き取るといった「救い話」もある。
 が、実はそれらさえも、「この世界の片隅に」が最終的にもっていきたかった世界への一里塚でしかない。この作品の白眉は、最後にカラーで、失われたはずの右手で描かれる呉市の夜景であるが、ここに我々は確かに希望を見る。が、この希望は上巻のプロローグから、地味と波乱の紆余曲折を経ながら延々と積み上げられ、ようやくここに至ったという祝福にも似た希望である。果てしなく階段を着実にあせらず端折らず一歩一歩上がっていく先に必ず現れる希望の世界、のもっとも究極の作品がこの「この世界の片隅に」だ。その一歩一歩は、まさしく世界の片隅での出来事であり、マクロな社会視点から見出すことができない。だが、そこに確実に幸福と希望を求めて愚直に階段を一歩一歩あるいていく真実がある。
 この階段を歩み、我々に希望を見せる福音者こそが、「すず型」の人格を持つものなのだ。それは「夕凪の街・桜の国」の太田京花だけではない。「ギャグ」のはずの「ぴっぴら帳」のミキちゃんも、「長い道」の道さんも、「さんさん録」の礼花さん、「街角花だより」の日和店長も、最終的にこのような到達点に至っている。
 つまり、こうの文代の創作の根底にあるテーマとして、長い階段を愚直に一歩一歩あがっていく先にある希望がある。そして、このことを示す体現者として「どこかぼーっとしていて、ドジで、なぜか日常生活の知恵はずば抜けてあって、そして案外頑固なところもある」という人格を与えているのだ。これは「萌え」などではなく、「愚直」の象徴なのである。その「愚直」の成す力は、社会的には非日常の極北ともいえる戦時中であってさえも、その力を失わないのだ。

 利き手を失い、親族を失いながらも絶望の慟哭というよりは淡々とした諦観に見受けられるすずの言動は、だからこそ愚直な一歩一歩を際立たせ、我々に「後戻り」も「立ち止まり」もさせない変わりに、「一段抜かし」や「端折り道」もないことを示す。社会や環境がどんなにドラマチックであっても、個人本人が幸福をつかむには目の前にあるものをひとつひとつこなしていくアンチドラマチックな積み重ねしかないのだ、というテーゼが、こうの文代の真骨頂であり、社会のドラマチックと、個人のアンチドラマチックをもっとも対蹠的に描いてみせた作品こそが「この世界の片隅に」だったのだ。

 世の中の成功物語の多くが、いかに「ドラマチックに成功したか」に腐心し、いかにムダを省いておいしいところだけをつまみ食いする合理化こそを「頭のよい人のふるまい」と説き、そして陳腐化ていることを思えば、この作品の類まれなる価値は疑いようがない。


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