読書の記録

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視覚マーケティングのススメ

2008年05月23日 | 編集・デザイン
視覚マーケティングのススメ---ウジトモコ---ノンフィクション

 清水義範の本で「最近の若者は学力が下がった」に対する反論として、たとえばポスターなんかのデザインをやらせると、昔の若い人よりもはるかに洗練されて上手なものをつくってくる、と指摘している。つまり、デザイン力は上がっているわけだ。
 上記のは、もちろん安直な「最近の若者は論」に対するアンチテーゼとして出されたものだが、デザイン性、もっというと視覚によるコミュニケーションというものが年々重要視されているように思う。

 これは「人は見た目が9割」とか「最初の3秒で心をつかむ」とか「企画書は1枚」とか、とにかく今という時代が、ごく短い瞬間的な接触で全体の評価をしなければならないリテラシーが求められていることと無縁ではないと思う。本質的には昔だってそうだったと思うが、今日はよりこういったビビットな情報の交信が戦略的に求められているのだ。

 もっとも「少ない色数で効果的に物事を見せる技術」は、直近の現象、つまり僕の部署に入ってきた最近の若手の人の書くものを見ると、逆に劣って来はじめたようにも思う。一言で言うと、なんだか見にくいのである。つらつらいろんな人のを見たり、逆に見やすいものと見比べたりした結果、「色の使い方」が下手、というか無頓着になってきているように感じた。1枚に10色くらい使ってサイケになっていたり、平気で赤い背景に緑の字を乗せていたりするのだ(光の三原色であるモニターだと見落としがちだが、これは印刷物とては可視性の悪い配色なのである。)それでいて、本人の着ている服のカラーコーディネートはしっかりしていたりする。

 これは「少ない色数で効果的に物事を見せる技術」を会得する機会がないまま、いきなり総天然色のプリンターがある環境に生まれているからだと気付いた。
 かつては大企業でも印刷物はモノクロが主流だった。企画提案でも通達でも、モノクロで紙面を構成させることが普通だった。つまり白地に黒のグラデーションという幅の中だけで、どこまで効果的に物事を伝えていくか、というセンスはいわば制限あってこそ磨かれる技術だった。チラシなんかで使用される二色刷りも、そういった制限の中でどこまでデザイン性(アートではなく)を引き出すかという戦いになる。そういった制約された環境にいるからこそ、色が豊富に使えるという場面では、どこでどう使うと効果的かがなんとなくわかる。
 が、純粋培養でカラープリンターやカラーコピーに慣らされると、色のアリガタミも当然ないわけで、しかも写真や図もWebから簡単に持ってこれる。だからパッと目になんだか完成度の高い書き物ができてしまうのだ。

 最近トヨタが、パワーポイントの使用の制限を出すとか出さないとか報道されていた。パワーポイントへの批判は、ある程度は有名税というか宿命みたいなものがあると思うが、パワーポイントのせいではなくて、使い手のレベルが露骨に出てしまう、というつまり、「道具」としてしごく真っ当な状況に戻ったということだろう。かつてはものめずらしさもあって、少々のプレゼン下手やデザイン音痴でも七難隠す作用がパワーポイントにはあったわけだが、その魔力がなくなったいま、“幽霊の正体みたり枯れ尾花”といったところか。

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