読書の記録

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本業はオタクです。 シュミも楽しむあの人の仕事術

2019年08月29日 | 生き方・育て方・教え方
本業はオタクです。 シュミも楽しむあの人の仕事術
 
劇団雌猫
中央公論新社
 
 
 サブカル系かと思ったらまさかの中央公論新社! この出版社はたまにエキセントリックな本を出す。
 
 働く20代オタク女子のインタビューを中心とした本だ。声優オタクとアイドルオタクが多くを占めている。「沼」とか「現場」とかなかなか専門用語が多い。
 オタクというのはその対象がなんであってもお金と時間を浪費するものだ(時間とお金をかける趣味をオタクというと定義してもいいかもしれない)。したがってオトナともなると、お金の確保と時間の確保が大問題になる。でお金と時間というのはなかなかトレードオフの世界なのであって、本書でもだいたい次の2通りにわかれる。
 
 ①給料はそこそこでいいから極力労働時間を短く済ませられる職に就き、オタクに投じることのできる時間を確保する
 ②多忙だが給料はめぐまれている職に就く。時間の融通に関して裁量がはかれるかが重要である(フレックス制度や有休のとりやすさなど)
 
 ①②両タイプとも共通するのが「仕事は仕事・趣味は趣味」とぱっきり分けていて「仕事はお金を稼ぐ手段」と割り切っていることだ。②の場合は趣味と仕事が隣接していることも多いが、世間で羨ましがられるほど「趣味と仕事が一致」しているわけでもない。まあそりゃそうだろうな。彼女らは、仕事にやりがいとか自己実現とかそういうものを過剰にこめていないそぶりがみてとれる。  
 当方40代のおじさんなのでこういう女子たちのあっけらかんとしたもの言いは隔世の感ありだが、僕の持論として「オタク」の社員には会社にとって有能なのと無能なのがいる、と断言する(つまり「非オタク」の社員にも有能なのと無能なのがいる)。すなわちオタクであることは会社にとって有能無能とは本来は関係がないということだ。少なくともぼくはそう思っている。
 
 会社勤めも20年以上やっていると、同じ部署に入ってくる新人に対し、こいつはオタクだ、こいつはオタクじゃないというのがなんとなくわかる。明言する人もいるしなんとなく隠している人もいるが、オタク気質というのはどうしても言動や身の回りのものから漏れ出てくる。
 で、オタクが僕の部署にやってくると、こいつは「光のオタク」か「闇のオタク」かを僕は見極めるのだ。この「光のオタク闇のオタク」というのは僕の20年来の造語である。
 
 「光のオタク」は仕事が早い。とにかく早い。ずるずると会社に居残ってなくもながなの雑談会議とかしていないでとにかくちゃっちゃと業務を遂行する。今風にいうと生産性が高い。で、その仕事のクオリティは決して悪くない。高クオリティのアウトプットを出して残業もしないでさっさと帰っていくのだから有能である。その仕事や会社への「愛」は感じないが「クオリティ」はある。僕も管理職なのでそういうオタク部下がつくこともあるのだが、この手のタイプを僕は評価している。
 もちろんこれは僕の見方だ。人と足並みをそろえないとか社風に添ってないとかでこの手のタイプを低く見積もる管理職もいる。 
 
 一方で、「闇のオタク」は仕事が遅れがちだ。だらだらやっているというよりも、とっちらかって整理できていない感じである。仕事の「芯」が見極められていない。だから時間が経っても出てくるアウトプットのクオリティが低い。もちろんオタクだから仕事に「愛」もない。要するに「仕事」にはなってないわけだ。しかも本人に成長の野心もないから、この手のタイプはいつまでも向上せず、結果的に任せられる仕事は非常に限られる。
 
 この「光」と「闇」はの違いはどこで生じるのか。そこそこの数のオタク社員(および非オタク社員)を見てきて僕なりの見解をこれから述べてみよう。
 
 ひとつは、「地アタマ」があるかどうかだ。
 本書でもちょっとふれているが実はオタクというのは段取り力が優れている。それにオタク趣味には考察を求められるものが多いからそれなりにロジカルシンキングの素養ができる。
 ところがそうやってオタクで鍛えられた能力が、その趣味の中だけで閉じちゃっている人と、その他の仕事や世の中ごとのさまざまに敷衍できる人がいる。後者こそが「地アタマ」がある人だ。
 
 この地アタマのあるなしは、「雑学」と「教養」の違いといっていいかもしれない。趣味としてのオタクが本人の中で「雑学」で終わっている人と、「教養」として万事の肥やしになっている人がいるのだ。地アタマのあるオタクははっきり言って最強であると断言する。
 
 じゃあ「地アタマ」はどうやってできるのだろうか。
 これも地アタマあるオタクとそうでないオタクを観察した結果気づいたことがある。それは、複数の分野についてオタク趣味を持っている人は地アタマがあるという結論だ。「鉄道」にしか興味がないオタクと、「鉄道」と「プロレス」と「SF」に興味のあるオタクがいるとすれば、後者のほうが地アタマ率は高いといってよい。これは単に多趣味ということなのではなく(それだと雑学屋と同じだ)、彼の頭の中で「鉄道」と「プロレス」と「SF」を結ぶシナプスができているのである。彼はそのオタク活動の中で本人の意識無意識にかかわらず、鉄道のある知識が、プロレスのある見識に化学反応し、プロレスのある知見がSFのある見解を刺激し、SFのある見立てが鉄道のある魅力に気づく、という地アタマの地平をどんどんつくっていくのである。
 「鉄道」ばっかり見ている人は、そのセンスが横の別分野に広がる脳の体験をしていないから地アタマが育ちにくい。単に鉄道のことだけやたらによく知っているがそれはつぶしが効かない知識になってしまうのだ。
 
 僕が2つめの会社に転職したときに指導役として上についた先輩がまさに地アタマのあるオタクであった。この人は「アニメ」「声優」「ゲーム」「戦記」「歴史」「統計」「ロボット工作」「自作パソコン」「ビール」「料理」のオタクだった。テレビ版エヴァンゲリオンをリアルで観ていてレイテ沖海戦を語って会社に統計ソフトをインストールした自作パソコンを持ち込んでその壁紙が某ゲームのヒロインで深夜残業時間になるとオフィスでもビール飲みながら仕事をするがそのアウトプットは抜群、しかも驚くなかれ実は既婚者で奥さんの弁当も自分がつくっているというそれはそれはウルトラ優秀な社員だった。
 
 
 あともう一つあって、それは「コミュニケーション能力」である。ミもフタもない。
 
 しかし実際にそうなのであって、コミュニケーション能力があるオタクはたいがい優秀だ。これは「コミュニケーション能力がある非オタクには優秀じゃないのがけっこういる」ということでもある。コミュニケーション能力があるオタクは、そのオタク素質から「他人に通用するアウトプットを出そう」というマインドセットがあるようだ。つまり自分勝手ではないのである。もともと地アタマがあるだけに応用力を持っているから、あとはそれが他人に通用するアウトプットとして出せればこれはもう優秀社員として間違いないのである。
 ところがコミュニケーション能力がないオタクのアウトプットは、エゴが出るのか、他人への気配りが念頭にないのか、自分にしかわからないような、あるいは自分だけがこだわっているような、つまり仕事のアウトプットして二流のものとなる。
 
 コミュニケーション能力はどうやってできるのか、というのは壮大な課題だ。ただ、「コミュニケーション能力があるオタク」をみると、自己肯定感や自己有用感が健全だなとは思う。卑下でも尊大でもない良いバランスを持っている。こういう人は責任感がしっかりしているので頼もしい。
 

 というわけで「光のオタク」がやってきたらこれはめっけもんである。とにかくほめておだてて機嫌よく仕事してもらう。定時帰りも有休もフレックスで夕方から出社も問題ない。期日までのアウトプットはしっかりしている。抜群の戦力になる。
 
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