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記憶すること・記録すること 聞き書き論ノート

2019年09月18日 | 民俗学・文化人類学

記憶すること・記録すること 聞き書き論ノート

香月洋一郎
吉川弘文館


 予備知識なく何気なく書店で見つけて手にとった本なのだが、思いのほか名著だった。
 著者は民俗学者でかの宮本常一の弟子でもある。紹介されている宮本常一のセリフがまたすごく良い。著者が宮本に尋ねるのだ。

 「宮本先生、『民俗』というのは別の言葉で言うと古くから伝わってきたもの、ということですな。」
 「そうなんですがね、ひとつ条件がつくんですよ。自分はそれで生きてきた、という。」

   そう。「自分はそれで生きてきた」である。聞き手は「この人は何で生きてきたのか」を見抜かなければならない。



 本書で強調されているのは、「説明」はアテにならないということだ。

 著者は「叙述」と「説明」を区別している。

 話す側にある目的や方向性があり、その通りに受けとってもらうべく話すことを、とりあえずここでは「説明」と表現し、受けとる側一人一人にとってその受けとり方が違っても、それは聞き手が自由にご理解くださいといった姿勢で話すことを、ここでは「叙述」、と表現しておくー

 そして民俗学者はフィールドワークにおいて話者の「説明」は鵜呑みにしないのである。むしろ「叙述」で語ってくれることを重視する。
 なぜなら「説明」は、後付けであり、情報の編集であり、話者の中での意味づけや再定義が成されているからだ。

 我々は世の中を把握するとき、論理を手掛かりにする。物語性で解釈する。したがって話すほうも聞くほうも「説明」というアルゴリズムを用いる。著者が指摘するように「近代教育の現場では、あるできごとをそのできごとのままに示すのではなく、なんらかの位置づけをそこで行って伝える」よう訓練されてきたのである。
 いわば世の中は「説明されたもの」で成り立っているといってもよい。コミュニケーション力とかプレゼンテーション能力などもこの範疇と言ってよい。

 しかし、実はここに罠があって、「説明」=「真実」とは限らないということである。
 世の中は、人の行動は、歴史の経緯は、ずっと偶発的で散発的で同時多発的なものだ。そして、本来的には刹那的な判断によるその場しのぎの連続や、互いに矛盾するいくつかの要素を、後知恵でひとつの論理でまとめたり、後解釈として記録する例は非常に非常に多い。とくに時系列な歴史をかたるときは、学校の教科書、企業の社史、就活での自己紹介、結婚式披露宴で紹介されるふたりのなれそめなど、かならず「編集」が入っている。

 だから「説明」からこぼれ落ちたものは些細なもの、あるいは「無いもの」とされる。

 このことは反対に「説明されたもの」はそれが些細なものあるいはウソのものであっても「事実」とされるということだ。

 就職活動をしてきた人ならば「学生時代に真にやってきた自分」より「面接での語り方による自分」によっぽど事態が左右されることにみんな身に覚えがあるだろう。   
 これを活用ないし悪用してはばからないのが国会議員たちだ。国会の問答をみていると「うまく説明できたもの勝ち」の世界である。
 マスコミの報道の罪としてよく取り出されるのもこれである。大規模な自然災害がおこると、報道陣が入ったところと入らなかったところで報道に差がでる。そうすると報道陣が入らなかった被災エリアは、まるではじめから災害などなかったかのように日本社会では受容される。そして報道陣が入ったところだけが何度も何度もクローズアップされ、そここそが今回の自然災害の典型的被災地と見なされるようになる。マスコミによって今回の自然災害が「説明」されたのである。
 それどころか、昨今話題の「フェイクニュース」も、この話に関連する。「フェイクニュース」というのは案外にバカにならない。なにが真実でなにがフェイクかというのは、実は紙一重というか相対的なものである。われわれ人間社会は「説明できたもの」で構成されているのだとすれば、「説明」できたものが真実であり、「説明」できないものがフェイクと解釈されやすい。そして我々は「うまく説明できたもの」に与しやすいのである。
 「真実」と「事実」と「現実」は思いのほか混線しているのだ。

 

 民俗学者や地理学者は、学究的態度として「説明」と距離をおく。
 どんなに理路整然とした語りであったとしても、「叙述」として聞く。学者がじっと見ているのは語りのむこうにあるその人である。この人の何がこれを語らせているのか、それを見ている。著者いわく「人が人に話を聞くということは、まず、人が内に潜ませている不確定性をもそのまま受けとめてみる姿勢を抜きには行えない行為」なのである。

 だから、本当に目の前にいる人に敬意を持つならば、その語たれる内容ではなく、この人は何で生きてきたかを見通す目が必要だ。本人の語りからこぼれてしまったこと、うまく説明できなかったもの、言語化されなかったものに、彼の生き方が宿されていたかもしれないのである。

 現代生活で我々はあまりにも「説明」の期待とその訓練をされすぎてしまっている。本当に真実を分かち合えるにはどうすればいいのか。
 本書では「対話」による信頼関係の蓄積と言っている。


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