読書の記録

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虐殺器官

2011年12月14日 | SF小説

虐殺器官

著:伊藤計劃

 

話題の作品をようやく読んだ。

今更こんなことを書くのは、時節を逸している気もするんだけれど、いやはやびっくりした。日本人離れしてまるで邦訳SFを読んでいるみたいな感覚に襲われた。

とはいえ、やはりこれは日本人が書いたSFだし、ベテランが手練を尽くしたというよりは、多感な世代が整理半ばで感興ほとばしりながら書いたという気もする。批評的な感想はかえって野暮にも思えるのだけれど、本書がさまざまな知識と創造を駆使したSFではありながら、その本質は極めて人のメンタリティに即した小説だからという気もする。この小説を支配しているのは、フラジャイルな感覚である。

ネタばれしないように書いていくけれど、本書は人が持つ肉体的器官、あるいは生理的器官、さらには精神的(脳機能的)器官の外部への拡張と、その反対である内部にみる法則性の見極め、みたいなものが扱われていて、一見きわめてハードなSFなのである。実際に、その部分だけでも十分に面白く、また示唆に富む。あんがい本当に近い将来そうなるんじゃないの? あるいは、米軍あたりはほんとにこのへん目指してるんじゃないの、と思いたくなるリアリティさえ感じさせる。

だが、ヒトというものは、やはりそこにはタフになれない。というか、タフになれないことにこそ希望がある、というこの感覚に、とても日本人的なものを感じるのだ。わかりやすくいうと、この「虐殺器官」は絶対に、どんなにCGを駆使してもハリウッドが映画にできない性質なものである。脚本の段階で挫折してしまいそうだ。だけど、庵野秀明と押井守あたりがいかにもアニメにしてしまいそうである。も宮崎駿さえどこか共感してしまうのではないかとも思うのである(まあ、ぜったい映画化はやらないだろうけど)。

これはやはり、自分自身の精神の推移とか気持ちのクローズアップいうものを特に気負いなく記述できてしまう、という「私小説」というジャンルをもつ日本人のDNAのなせる技だとも想うのである。肉食人種がこれをやると「失われし時を求めて」とか「ダブリン市民」みたいに超絶的な気負いと仕掛けが必要になってくるのだが、日本人は平家物語このかたなぜかちゃっちゃとこれをやれてしまう。

あえて断言してしまうと、自分と他人の境界線があいまい、という世界観を日本人は無意識的にも持ち合わせていて、私が思うんだからあなたもそう思うでしょう、とか、世間体が自分の行動基準とか、いわゆる同調圧力がその場を支配するというのと実は同じ根っこであり、自分の精神世界の内側を外の世界のプロットにあわせることに何の抵抗もなくできてしまい、また、鑑賞するほうも、なんの努力もなく、そこに感情移入出来てしまう、という相互関係がここにあるのである。

で、この相互関係を支えるのは、ヒトのココロというのは実に弱くうつろいやすい、というフラジャイルな機敏である。「うつろいへの感情移入」こそが、私小説の真骨頂であり、日本人の芸術的感性である。

ということからみるとこの「虐殺器官」も、ワールドワイドな小説ではあるけれど、日本人でなければなかなか味わえないSFではないかと思う。特に、最後に主人公が選択した行動は、日本人でなければ絶対わからない美学と様式に基づいているように思える。小松左京のSFのほうがよっぽどアメリカ人やイギリス人にも鑑賞に耐えるかもしれない。

 

 

 

 


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