読書の記録

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ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ悪魔

2011年12月10日 | SF小説

ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ悪魔

京極夏彦

 ようやく読んだ。けど、全作が10年前。そのとき僕は分厚いハードカバー新刊を買った。あれから10年。

 登場人物もどんな話だったのかもほとんど記憶にないのだ。この10年はあまりにも長かった。結婚もしたし、子供も生まれた。仕事も変わった。住んでいるところも変わった。

 だから、正直いってなかなか読みにくいのだった。しかも、2つのエピソードが交互に現れる方式‥・古くは「怒りの葡萄」とか、最近ならば「1Q84」とか「涼宮ハルヒの驚愕」とか。そんなもんだから通勤の行き帰りなどの垣間読みだと、なかなか全体の流れをつかめなかったりするもどかしい読書となってしまった。

 

 とはいえ、ここはストーリーテラーの京極夏彦だから、最後まで読みきったわけである。これ以上のネタばれは避けながら、所感を書きます。

 全作もそうだったとおぼろげに思うのだが、ここは物凄く過敏なまでのコミュニケーションによるカタルシスと障害が描かれている。最近の中学生の空気を読む感覚は、おおげさでなくこんな感じなんだろうかと思うとやるせなくてしょうがない。実際、会社に入ってくる新入社員(いよいよゆとり世代)のあの息をつめるような顔色の窺い方はいったいなんだろうかとむしろ心配になる。

 これをして、大胆さが足りない、とか自分に自信がなさすぎと批判するのは簡単だが、一方で、彼らがこうせざるを得ない空気がそこにあるのも事実だろう。我々世代の知らない世界がそこにある。いったいなんでそうなってしまったのだろう。

 訳知り顔に、親が叱らなくなって甘やかされたからだとか、学校の先生が腑抜けになったからだ、とかいう声も聞くが、どうもそんな単純な理由ではないような気がする。もっというと、ここにはかなり本能的な生存競争が支配されているのだと思えてならない。我々世代には想像もつかない深刻な生存競争が今の中学生世代にはあるのだ。

 生存競争が激しくなるときというのは、多様性を失ったときである。多様性が担保されているときは、それぞれの居場所が確保されていてそれなりに均衡を保つのだが、多様性を失うと少ないリソースを奪い合う必要があるため、生存競争は激しくなる。

 これだけ、価値観の多様化とか個性の重視とか言われているのに、むしろ真実は多様性を失ってますます画一化されているのではないか、というのは僕の憶測である。実は、日本人は多様性の良さなんてものをちっとも信じてやいないのではないか、というのは僕の仮説である。3.11以後、ますますこれは加速化したように想う。

 画一性というのはファッショなわけで、これはやはり余裕のない時代を背景に生まれる。どこの誰がみても今の日本に余裕などないのだが、逆に余裕がないのを言いわけにして、誰も余裕を取り戻そうとしていないようにも思う。つまり、「どうすれば余裕がうまれるか」は誰も考えない。「ゆとり教育」は大批判されてついには撤回されたわけだが、「どうすれば意義あるゆとりがとれるか」というアジェンダはついぞ設定されなかった。「ゆとり」なんて邪魔なだけだ、という前提がここにはある。

つまり、日本人DNAとして「ゆとり」は敵なのである。ゆとりはなんだかよくわからない自分の価値観にあわない多様性を創出させてしまう。それはどうもおもしろくない。ということで否定されてしまうのだ。金子みすずの有名な詩に「鈴と小鳥とそれから私、みんな違ってみんないい」というのがあり、極めて人気が高いのだが、人気が高いというのは現実の世の中がこれを体現するのがほとんど絶望的なまでに困難だということの裏返しでもある。人々はここにユートピアを求めているのだ。

 この小説が持つ破壊的カタルシスも、SFエンターテイメントではありながら、実はやはりユートピアを描いているような気がしてならない。我々はこの破壊的な世界にあこがれを持つ。徹底的な清潔と制御がもたらす安寧と抑圧。ここに喜びはない。この小説の登場人物が得る喜びは、この絶対安定をどう崩していくかというところに終始ある。江戸末期にええじゃないかが日本中を席巻したように、暴発のカタルシスをいまの日本は探し求めているような、いやな予感がしてならない。

 

 

 

 


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