読書の記録

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呪いと日本人

2019年03月26日 | 日本論・日本文化論

呪いと日本人

小松和彦
角川ソフィア文庫

 これは面白い本を読んだ。なるほど、古代日本にあっては「呪い」というのは十分に科学だった。科学というのが因果関係を説明するものであるとすれば、京の都が荒廃するのも、神殿に雷が落ちるのも、関係者が流行り病でばたばた死んでいくのも、これみんな、平将門が、菅原道真が、崇徳上皇が呪ったのだと説明できたのだ。

 「呪い」が科学ならば、その科学を制御するテクノロジーは「祓い」である。真言宗や陰陽道はテクノロジー集団であった。巫女とはリケジョであった。

 

 時の権力者は、天皇家も摂関家も「祓い」の専門家をテクノロジストとして起用していた。

 というのは、権力の座に上り詰めるということは、そこに至るまでに死屍累々とでもいうべき多くの人の恨みを買ってきたからである。様々な人間に呪われるだけの根拠があったからだ。

 天皇家や摂関家を頂点として、当時の人間社会というのは「呪い」が科学であったから、誰もが何であれ恨み恨まれの因果を持っていたといってよい。どんな聖人でもひとつやふたつの後ろ暗い覚えがあった。こういったココロのひっかかりが「ケガレ」であった。日本の社会風習や文化で欠かすことのできない「ハレ」「ケ」そして「ケガレ」である。

 「ケガレ」の蓄積が不健康の度を高めるから、蓄積の度がひどくなる前に駆逐しなければならない。伝統行事でケガレを祓うたぐいのものは現代でもたくさんある。

 本書の痛快なところはまさにここで、「呪い」ー「祓い」-「ケガレ」という日本の通底にあった関係式が見えてくる。そしてこの日本人のメンタルの急所とでもいうべきこれらを巧みに利用してきたのが陰陽道や密教であり、民間に流布した狐信仰や丑の刻参りなのである。

 

 ところで、僕は「呪い」というのは、呪われた人に「罪の自覚」がないと機能しないという話をきいたことがある。逆説的だが、呪われることをしでかしたという「自覚」がある人が呪いにかかる。悪いことをしたという気を露とも感じなければ、良心の呵責を一寸も感じなければ、いくら呪いを浴びせかけられても当人はケロッとしている。

 芥川龍之介に「さまよえるユダヤ人」という短編がある。

 十字架を担ぎながらゴルゴダの丘の処刑場へ連行されるイエス・キリスト。それをみて罵詈雑言を浴びせかけ、石をなげうつエルサレムの町の衆。とあるユダヤ人の男もそんな中の一人であった。町衆にまじりながら彼も転倒したイエスに蹴りをいれた。そのとき彼は、下から見上げるイエスと目があった。澄んだイエスの瞳を見た。

 そのときこのユダヤ人の男にイエスの「呪い」がかかった。その呪いとは、永遠に死ぬことができないでこの世をさまようという呪いだった。現代でもこの男「さまよえるユダヤ人」は生き続けているという。

 イエスを虐待したのは彼だけではない。それなのになぜ彼一人だけがイエスの「呪い」にかかったのか。

 これが芥川龍之介の真骨頂だ。この男は、イエスの目をみたとき「しまった!」と思ったのである。「自分はなんてことをしてしまったんだ」と罪を自覚してしまった。その罪の自覚が呪いを発動させた。

 人はごまかせても自分はごまかせない。他人様は騙せてもお天道様は騙せない。自分がしでかしたことによる悔い、罪の意識、良心の呵責は、それが大きければ大きいほど自分の心身をむしばむ。それが「呪い」である。

 

 三大怨霊といわれる平将門、菅原道真、崇徳上皇。これはそのまま桓武天皇、醍醐天皇、鳥羽法皇の感じた罪の意識の深さとも言えるのだろう。


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