読書の記録

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藤子・F・不二雄のまんが技法

2020年03月04日 | 芸術
藤子・F・不二雄のまんが技法
 
藤子・F・不二雄
小学館
 
 
 気晴らしに読んでみたらかなり面白いのである。
 
 つまりは藤子先生の手による「マンガの描き方」だが、それをマンガではなく、挿絵と文章で書いている(挿絵は既存の藤子マンガを実例的に用いている)。これ、藤子・F・不二雄ご本人の文章なのだとしたら、そこそこ珍しいものなのではないか。で、その文章からはマンガと同じように藤子・F・不二雄特有の非常に冷静沈着で奥ゆかしく、優しさに満ちていて、しかし自信と情熱と少しばかりの狂気がちらちら見え隠れする。そんな文章である。
 
 
 ある年齢以下の日本人の多くがそうであると思うのだが、僕も藤子・F・不二雄のマンガは、物心ついたときには既にそこにあった。最初の藤子・F・不二雄はやはりドラえもんだった。(このころはFもAも一緒の藤子不二雄だった)
 
 したがって、「マンガ」とはこういうものだとすりこまれたわけである。いわば「基本形」だ。
 そこから応用・発展的なものとして、鳥山明みたいなのがあったり、大友克洋みたいなのがあったり、高橋留美子みたいなのがあったり、武論尊と原哲夫みたいなのがあったり、もちろん、ちばてつやとか松本零士とか本宮ひろしとか秋本治とか、ひろいひろいマンガの世界を知ったのである。
 
 だけれど、これは大きな観点が抜け落ちている。
 それはマンガ家の力量としての藤子・F・不二雄だ。実は、藤子・F・不二雄の作品は、あれで既にそうとうに研ぎ澄まされたハイレベルの職人芸なのである。あまりにもあれがスタンダードになりすぎて、まるで「入門編」のように思えてしまい、藤子不二雄のマンガがどれだけ至芸の極みなのかかえって気が付かなくなってしまった。藤子・F・不二雄のマンガは超絶技巧のナチュラルメイクみたいなものである。
 
 ストーリーのつけかた、緩急のつけ方、キャラクターの造形、性格づけ、表情のつけ方、体の動かし方、コマわり、アングル、こういったものが、いまやマンガの教科書的なスタンダードに見えるかもしれないが、あれは藤子不二雄(および同年代のマンガ家)の間の苦心と試行錯誤の末に生まれたものだ。。
 「机の引き出しがタイムマシンの入り口になっている設定」というアイデアも、あれは藤子不二雄に権利があるといってよい(榎本俊二のマンガに「机の引き出しからタイムマシン」をもろパクリしたシーンがあって「もはや公共財みたいなもんじゃないか」と開き直ったギャグがあり、思わずうなづいた)。
 
 藤子・F・不二雄自身が公言してはばからないように、彼のまんが技法の影響源には手塚治虫がある。
 
 
 あるマンガ家が、とある芸術系の大学で外部講師としてまんがの講義を行った。その記事によると、現代の学生たちに往年のマンガ家のすごさを説明しようとしてももう通じないのだそうだ。赤塚不二夫、石ノ森章太郎はもう何がすごいのかわからない。絵柄もキャラクターの魅力もストーリーも古臭さから逃れられない。藤子不二雄Aももうだいぶキツイとのことだ。この感触はなんとなくわかる。骨董品としての価値はわかるけれど、現代の実用性という観点からは歴史のほころびが見えているということだろう。彼ら学生は物心ついた時には井上雄彦や青山剛昌や尾田栄一郎がいた世代である。歴史とは残酷なものだ。
 
 それでも、手塚治虫と藤子・F・不二雄はなんとかまだいけるという。
 手塚治虫も藤子・F・不二雄も、絵柄の古臭さを指摘されれば否定できないだろう。しかし一方で、キャラクター設定の魅力、ストーリーの緩急めりはり、ダレないコマ割りとアングルといったものは、時代を超えて普遍的に人をひきつけるものがあるのだろう。ドラえもんの神回とされる「さようならドラえもん」のストーリーをすべて簡易なアスキーアートで再現しているものをだいぶ以前に見たことがある。それでも泣けるのである。眼鏡を吹き飛ばされてボロボロになりながらも「勝ったよ、ぼく」とドラえもんに告げるのび太によせる感動の嵐は究極の省略画とも言えるアスキーアートになってもまったく失せない。これが意味するのは緻密に計算された運びがあれにはあるということだ。それが時代を超えてみなに共感されるということはそれだけの人間観察力と、それをマンガにしてみせる技術が藤子・F・不二雄にあったということである。
 
 
 本書を読むと、藤子・F・不二雄のまんがの描き方は、ひたすら「映画」になぞらえているんだなということがよくわかった。あれは映画を紙面でやっているのだ。おそらく手塚治虫がそうだったのだろうと思う。キャラ設定、ストーリーのつけ方、アングル、コマ割り、クライマックスの盛り上げ方、小道具大道具舞台背景。あれはもともとは映画の技法なのである。藤子・F・不二雄に限らず、同世代の仲間たちを描いたトキワ荘物語などをよむと、彼らはとにかく映画を見に行っては研究したらしい。
 それから、本書で藤子・F・不二雄がひたすら重要と言っているのが「省略」である。どこまで不必要なものを抜くか、それがメッセージを際立たせ、時間の推移をはっきりさせ、存在を浮かび上がらせ、クライマックスを盛り上げ、余韻を残すか。この「省略の美学」こそが藤子・F・不二雄だったんだなとつくづく思う。
 

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