バーナード嬢曰く。
施川ユウキ
一迅社
一迅社
最近、あちこちの書店で平積みされている。
「本好き」として認められたい女子高生を の主人公と、その友人たちによる、「本好きあるある」のコミックである。とくに「ステイタスとしての『本好き』を意識する」人のインサイトをかなり言い当てている気がする。少なくとも僕の中での「あるある」はかなりのものだ。
・「あらすじガイド本」でいちばんおもしろいのは、自分が読んだことのある本のところを読むことである。
・古典的名著は、ページが薄い本ほどありがたい。
・「舟を編む」を読破しても自慢にならない気がする。
・「銃・病原菌・鉄」は、文庫化前に読んだ人でありたかった。
・表紙が真っ黒なデザインの本は、何か期待させるものがある。
・村上春樹作品との距離感はどのくらいでいるのがちょうどよいのか考えてしまう。
・「面白くて一気に読めて、かつ読書通ぶれる本」を求めている
・古典的名著は、ページが薄い本ほどありがたい。
・「舟を編む」を読破しても自慢にならない気がする。
・「銃・病原菌・鉄」は、文庫化前に読んだ人でありたかった。
・表紙が真っ黒なデザインの本は、何か期待させるものがある。
・村上春樹作品との距離感はどのくらいでいるのがちょうどよいのか考えてしまう。
・「面白くて一気に読めて、かつ読書通ぶれる本」を求めている
などなど。
僕が、読書というものは悪くないと思うようになり、平均的同年代よりは本を読むようになったのは中学一年生以降だ。宮脇俊三の鉄道旅行記と、夏目漱石の「坊っちゃん」がきっかけだった。思うにこれはたいへん幸運なスタートだったと思う。それまでの僕は単なる鉄道少年だったのだが、宮脇作品はそこに教養の必要性と、森羅万象を文章化することの妙技に気づかせてくれた。夏目漱石の「坊っちゃん」は、できすぎた話だが、当時すっかり五月病になってしまった僕に不思議な勇気をくれた。くりかえし5回くらい読み返した(いまでもふと読みかえす)。
つまり、ある意味で内省としての本来の読書姿勢を獲得したわけである。しかしいっぽうで、多感な中高生時代だから虚勢をはるようにもなる。学校の図書館にもこの年代特有の、異様に頭でっかちで極端な学友が出没するようになる。長編大好きで「戦争と平和」も「罪と罰」も読破していた奴とか、本書に出てくる神崎しおりみたいにつねにSF本を持ち抱えている奴とか、当時センセーションを放った高橋源一郎の実験的な小説にかぶれ、似たような作風のものを文芸部に投稿していた奴とか。吉本ばななのくらーい小説に影響されていた女子もいたな。
そうなってくると、自分もなにか向こうを張るようになる。
わかりやすいのが読書数である。1年間何冊読むかとか。このころ「1年間に百冊」というのはステイタスだった。もちろんコミックは除く。もっともラノベ(当時はジョブナイルと言っていた)は勘定に入っていた。そうなってくると「ページの少ない薄い」作品のほうが効率よい、なんてことを考えるのである。
わかりやすいのが読書数である。1年間何冊読むかとか。このころ「1年間に百冊」というのはステイタスだった。もちろんコミックは除く。もっともラノベ(当時はジョブナイルと言っていた)は勘定に入っていた。そうなってくると「ページの少ない薄い」作品のほうが効率よい、なんてことを考えるのである。
こんな本あるの知ってる? オレ読んだぜ、みたいな話をするようになる。
中学生当時ぼくは鉄道の文脈から内田百閒の作品に流れ着いていた。夏目漱石の弟子というポジションでもある内田百閒は、当時はそれほどメジャーではなかったから、「冥途」といった幻想的作品がすごく傑作である、なんてしたり顔で解説するのである。そのくせ、師匠である夏目漱石の「夢十夜」の存在をまだ知らなかったりするのだから、お粗末極まりない。のちに「夢十夜」を知って冷や汗をかいた。
スティーブン・キングの「クージョ」はフィクションだけどすげえ怖くておもろいぞ、ああいう幽霊も超能力も出さずに怖い話をつくりあげる日本人はいないななどとうそぶいてみると、吉村昭の「熊嵐」というノンフィクションですさまじいのがあってだななどと返り討ちにあう。
中学生当時ぼくは鉄道の文脈から内田百閒の作品に流れ着いていた。夏目漱石の弟子というポジションでもある内田百閒は、当時はそれほどメジャーではなかったから、「冥途」といった幻想的作品がすごく傑作である、なんてしたり顔で解説するのである。そのくせ、師匠である夏目漱石の「夢十夜」の存在をまだ知らなかったりするのだから、お粗末極まりない。のちに「夢十夜」を知って冷や汗をかいた。
スティーブン・キングの「クージョ」はフィクションだけどすげえ怖くておもろいぞ、ああいう幽霊も超能力も出さずに怖い話をつくりあげる日本人はいないななどとうそぶいてみると、吉村昭の「熊嵐」というノンフィクションですさまじいのがあってだななどと返り討ちにあう。
要するに、読書好きというのはそれがアイデンティティであり、アイデンティティは承認欲求を得ようとするのである。
そんな年代からもうウン十年なのだが、いまだに僕の読書趣味に「虚勢」があることをまったく否定しない。そもそもこんなブログを書くこと自体がそうである。
「1年間に100冊」というのもいまだに意識していてちゃんと毎年数えているのだが、10年以上達成していない。
「バーナード嬢曰く。」はかなり評判がよいようで、アニメ化までされるそうである。ということは、けっこう同じ読後感をもった人が多いということなのだろう。最初読んだときは、こんなマニアックな内容ではたしてどれだけついてこれる人がいるのかしらなどと思っていたが、けっこう感情移入した人が多かったということなんだろうね。もともと形から入るだけで実はまったく本が読めない主人公がだんだん本の面白さに目覚めていくところが心地よい。