ノーベル平和賞で世の中がわかる
池上彰
ノーベル平和賞は、文学賞とともに、一連のノーベル賞の中では異色である。平和賞だけがスウェーデンの王立アカデミーではなく、ノルウェーから授与されるところも特色があるが、これまでの受賞者をみると、他のノーベル賞と違って、実績がはっきりしないものも多い。オバマ大統領の受賞なんかはもろにそれであった。
そのあたりを、一人ひとりの受賞者を紹介することで、ノーベル平和賞というのがどういう性質の類のものかを浮かび上がらしたのが本書、著者はご存じ池上彰。
他のノーベル賞と同じように、誰がみても文句がない実績を持つ者に対して授与する場合もあるが、それ以上にノーベル平和賞がねらっているのは、世界に対し、ここにこういうイシューがあるというアドバルーン効果、あるいは、いまみんなでこれを考えなければならないのだというアジェンダ設定を果たそうとしているのだなというのがわかる。
だから「表彰」というよりは、そのイシューに対しノーベル財団が「みんなも注目せよ!」と旗を掲げているのに近いわけである。
たしかに2010年の劉暁波の受賞は、中国の人権侵害というイシューを世界的に知らしめるアドバルーン効果を示したし、2007年のアル・ゴアとIPCCの受賞も、「地球温暖化」というアジェンダを国際上にゆるぎない形で据えることができた。
イスラエルとパレスチナ、イスラム国での宗教理由による人権抑圧、以前であれば南アフリカの人種差別問題、北アイルランド問題などが、たとえ解決の半ば途中であっても、改善努力にかかわった人が平和賞として授与されるのは、世界の目をそこに意識させ、逆に当事者や当事国に、世間から注目されていることを意識させ、下手なことはさせない、という抑止力みたいなことを働かせようとしているからである。
東ティモールやポーランドみたいに実際にそれがうまくいった例もある。
しかし、そうなってくると、ノーベル平和賞を決める委員「ノルウェー・ノーベル委員会」が国際情勢の平和を考える際に何をアジェンダとして持ってくるのか、というのが問題になる。他のノーベル賞と違って、客観的な根拠を持ちにくく、こと国際政治とか国際平和というものは様々な利害関係の上になりたつから、場合によっては一方への肩入れを過剰にもってしまう側面もある。実際に、冷戦時代には共産圏よりは西側諸国のあり方をもって平和と成す見立てが強かったようだし、ゴルバチョフの受賞なんかはもろに「脱社会主義エライ!」というメッセージである。
近年では、アフリカ、女性、核廃絶、貧困層や少数民族の自立といったあたりがキーワードで、わりと万人が納得しやすそうなテーマだが、一方でイスラム国のあり方に平和的見地からモノ申すという態度もあり、やはり当事国からみれば一方的という誹りはあるのだろう。
逆に言えば、批判覚悟で強気でアジェンダを設定することこそがノーベル平和賞に課せられた意義と期待ともいえる。ノルウェー・ノーベル委員会はオピニオンであり、試されるのは期待を背負った受賞者と、そのアジェンダを知った世界ないし我々である。
2012年はEUが受賞。頼むから破たんだけはしてくれるなよ、とプレッシャーを与えているようにも思える。