読書の記録

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大戦略論

2020年06月17日 | 歴史・考古学
大戦略論
 
ジョン・ルイス・ギャディス 訳:村井章子
早川書房
 
 
 何度か書いているけど、僕は世界史が鬼門である。ここ最近になって一生懸命おさらいしようとしているけれど、日本史と比べて圧倒的に基礎知識が足りない。山川の世界史教科書を斜め読みしてみたこともあったが、大きな流れはともかく細部の知識は1回読むくらいでは全く身につかない。
 
 本書は世界史上のいくつかの偉人を例にとり、彼らの戦略的決断の是非を検証したものだ。その名も「大戦略論(グランド・ストラテジー)」。
 古代ペルシャ時代、ギリシャ・ローマ時代から、ナポレオン、アメリカ合衆国独立、そして第1次世界大戦と第2次世界大戦という時間軸の中で、クセルクスから、アウグスティヌスから、マキャベリ、フェリペ2世、リンカーン、ルーズベルトなどの業績を俯瞰していく。
 これらの人物や当時の世界史の基礎知識が頭にあれば、もっとするする頭にはいるのだろうが、僕はあまりおぼつかないのでどうにも読むのに苦労した。アメリカへの移民史や建国史ももうちょっとちゃんと知っていれば、本書は面白い記述だっただろうに、と思う。
 
 さて、そんな心持たない状態で読んだ本書であるが、「人は長じるにつけどこかで己を過信して失敗する」というのが教訓である。若いころに鋭い判断をこなして困難な課題を突破してきた人物がやがて現実的制約を軽視して理想に挑み、破滅するのである。
 これはよっぽどの自己制御力がない限り、そうなってしまうという自己破壊プログラムみたいなものだ。歴史上の偉人に限らない。身近にもいっぱい心当たりがある。
 
 
 己を過信するとどうなるかというと、手段と目的が逆転するのである。なぜその「手段」をとっているのか。当初は、当座の目的に対しての慎重な検証と取捨選択を経て選んだはずの手段が、やがて「その手段さえとっておけば間違いない」という判断になるのである。脳のショートカットが行われる。こうして手段は徐々に目的化していく。兵站と補給を軽視して強気の進軍をしたりするのはこのパターンである。
 そして、やがては「なぜそれをやっているんだっけ?」という、目的がないまま、手段だけが肥大化していく不気味な現象にもなる。第1次世界大戦にはおよそそのようなところがある。
 
 真にグランド・ストラテジーが描ける人は、目的がしっかりしている。しかもその目的を達成するための手段の柔軟さが幅広い。そしてここが大事だが、目的を達成するための手段は、往々にして清濁併せ呑むことを求められることが多い。本書の表現を借りれば、目的達成のためには矛盾を恐れてはならない、のである。
 マキャベリには、目的達成のためには手段を択ばない、という有名なテーゼがある。しかし、あらためて冷静にみると、マキャベリの思想は目的達成のためには何をしてもいいのだ、という矮小なものではない。矛盾を克服するような目的こそが、大戦略の名にふさわしい「時間と空間とスケールを持った目的」ということになるだろう。すなわち、矛盾をともなわない手段で達成できる目的というのは、しょぼい目的なのだともいえる。小利口な人はしょうもない目的の達成やつじつま合わせで甘んじてしまうことが多い。できない理由をならびたててやらない人タイプもこれに当たる。
 小目的ではない。時間と空間とスケールを見据えた大目的こそが、グランドストラテジーが持つ目的である。そして、そんな大目的を達成するための手段は当然一筋縄ではいかないのだ。
 
 本書によれば、清濁併せのみながら手段を駆使し、常に目的を北極星のごとく見定めてスケールでかくやりとげたグランドストラテジストとして、オクタヴィアヌス、アウグスティヌス、エリザベス一世、リンカーンを挙げている。最初はよかったのにやがて己を過信して破滅した例としてペリクレスやナポレオンを。小利口に徹してしまった例としてフェリペ2世やウィルソンを挙げている。
 
 まあ、それにしても。孫子やクラウゼヴィッツやマキャベリも巻き込みながら、歴史上の偉人をなで斬りにしていくこの本。もともとは大学の講義だというが、その場で聞いていたらこれはさぞかし血沸き肉躍る講義ではあったんだろうとは思う。世界史の基礎知識がおぼつかない僕は各章各章なかなか読むのに骨が折れるのだが、どの章も後半にいくにしたがってのめり込んでいくものがあったのは確かだ。
 

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