読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

中国化する日本 ・日本とは何か・南極点のピアピア動画・同人音楽とその周辺

2012年03月23日 | 複数覚え書き

現状報告

ここ最近読んだのをまた列挙すると、

・中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史 與那覇潤

・日本とは何か 網野善彦

・南極点のピアピア動画 野尻抱介

・同人音楽とその周辺 井手口彰典

 

である。脈絡ないようで実はつながっている。

まず、「中国化する日本」はネット上でも評判になっていて、読んでみてたしかに面白かった。この大胆な仮説の作り方は京都学派に通じるなと思ったのだけど、どうやら本当に一脈つながっているようだ。物議をかもしだしそうなタイトルだが、要するに中国化=グローバル化という図式なのである。このレトリックは、グローバリズムというのは、西洋諸国が台頭する以前に、中国でそのための社会体制が整えられたというところからくる。僕は不勉強なので、本当に中国がそうなのか、平清盛や後醍醐天皇らが「中国化」だったのかなど、本書が語ることの真実の程度を判断するだけの材料も頭脳も持ち合わせていないのだけれど、その真逆が「江戸時代化」という指摘はなんとなくそうかもなあ、と思う。人情とかムラ社会とか終身雇用とか年功序列とか本音と建前とかこのあたり江戸時代くさいといえばたしかにそう思う。

「江戸時代化」の基盤は何かというとコメによる農業を前提とした政治体制である。士農工商と検地と石高制。これが人を土地にしばりつけ、身分の固定性を促し、集団で一単位という社会単位をつくり、貨幣経済との矛盾をつくってしまった。良くも悪くも、コメは日本人と日本国家の歴史の中枢にある。というのは多くが共有する日本史観である。

 

・・というところを日本はもっと多様性を保った歴史があり、石高と武家社会と天皇制だけが日本の歴史ではない、というわけで網野善彦の「日本とは何か」。網野史観として名高く、「中国化する日本」でもこの名前が出てくる。僕も随所で彼の名前が出てくるのを気付いていながら本気で著書を読んだことがなく、改めて講談社学術文庫を手に取った次第である。日本列島を囲む海岸線は内地への防波堤ではなく、むしろ外地へむかって開くものであった。このポジネガ逆転の発想のカタルシスは筆舌に尽くしがたい。その観点からいえば、島国としての特殊性というのは、閉鎖性ということではなく、外地に開けることによる多様性の担保された社会ということになる。もっとも多様性というのは支配側にとっては厄介な状況であり、多様性の周辺部を切り捨てて真ん中を一律にすることに腐心することになる。鎖国政策なんてのもそのひとつで、支配側が外部から来る多様性の種を一律管理することになった。

というわけで、ボトムアップが多様性を担保するのに対し、トップダウンとはひたすらに均質性を求める。つまり、多様性と国家統一というのは互いに矛盾しあっていて、国家統一とは均質化をはかるということであり、学校で教える日本の歴史が、誰がどのようにして国家を統一したか、という話で語られるのだから、「どの点で均質化させたか」という話に終始してしまうのはしかたがない。(結論として次々支配者が変わって争いだらけになるわけだが)

ただ、興味深いのは、そういう日本の均質化の動きはあくまで日本という次元の中において発揮され、グローバルでの均質化にはまったく乗ってこなかったところにある。むしろ、グローバルの均質化の中では、日本は「ガラパゴス」という特殊性をまとうことになった。だが、改めて思うに、均質化した社会で強みを発揮するのは、パワーゲームで勝ちにいくか、比較優位で個性を発揮するしかない。日本は均質化の波の中でガラパゴス戦略とでもいうべき後者を選び、これが世界市場で売り物になる時代がかつて確かにあったのである。

もちろん21世紀になって10年が経過した昨今、かつての日本ブランドの威力が失墜しつつあるのは多くが知るところである。「ガラパゴス」がもつ精緻さは、グローバルのスピードとコストについてこれなくなった。比較優位性が薄れたのである。

じゃあ、もう日本はだめか、均質化するグローバルの中で塗りつぶされてしまうのか、というのが昨今の論調であるが、実は世界が魅了する日本というのがある。これのために世界は日本を無視できず、そこにマネーも動く。

それが何かというと、これが「南極点のピアピア動画」である。

唐突かもしれないが、そうなのである。

「南極点のピアピア動画」に出てくるのは、まず精緻さが要求される宇宙技術。日本が「はやぶさ」で見せた奇蹟の連続技はあれはまさしく日本が世界に誇る宇宙技術である。中国が有人宇宙船「神船」を飛ばしたのは確かに偉業であり、あれはウルトラDであったとすれば、「はやぶさ」はひいき目にみてもウルトラCを100回連続でやったようなものであり、どちらが技術的に困難かは即答が難しい。

それから深海探査技術が出てくる。深海探査は海洋王国ニッポンのお家芸と言われている。宇宙も深海も、素材技術が極めて重要であるが、ここでも日本の繊維メーカーや材料メーカーの研究はすごい。なぜマスコミがおいかけないのか。アップルばっかりおいかけてないで、こちらもちゃんと取材しなさいといいたくなるくらいだ。

それからこの小説はコンビニエンスストアのロジスティックスがでてくる。これも日本の物流マネジメントの極みであり、究極のサラリーマン巡回問題みたいなものである。この複雑怪奇な一筆書きを行うような仕組みは日本だけであり、Fedexもウォルマートもできない。

そしてこれらを横断するのは、なにをかくそう初音ミクとニコニコ動画である。これこそ日本のポテンシャルの極め付け、初音ミクが世界で引く手あまたなのは周知の通り。ニコニコ動画も要するにP2P技術なのであって、そのビジネスモデルと交わされるコンテンツの多様性はyoutubeに負けていない。

・・と、かなり乱暴に片付けてしまったが、今の日本も世界に誇れるものはある。ただ、問題があるとすれば、宇宙も深海もコンビニも初音ミクもニコ動も、奇妙にオタクっぽいところである。というか、本当に日本はもうこんなのしかないのか、とがっかりされるむきもあるかもしれない。

だが、ここで「同人音楽とその周辺」である。

個人個人が持つパワーが妨げられずに発露する機会が与えられると、日本人が作り出す世界はまだまだ世界を魅了できるのである。そのためには本書で再三強調されるように「妨げられない」という環境が重要になる。その意味で、インターネット社会、あるいは同人社会というのは「妨げられない」社会である。

つまり、「妨げられない」自発的なボトムアップという分野で日本が世界に誇るものが出現している。そして、これはボトムアップゆえにゆるされた「多様性」からうまれている。「中国化」というのはとにかく「妨げられない」社会をさしている。「江戸時代化」を憧憬に持つ日本は、「妨げられる」ことを自ら選んでそこに安住し、そして安楽死していくところがあったわけだが、ここに一番「中国化」した世界がなにをかくそう「同人」の分野であり、初音ミクであり、台湾返礼に見せたパワーなのである。最近になって国のほうでもクールジャパンといってこれらを持ち上げたり、大メーカーがキャンペーンに使うようになったが、トップダウンが完全にボトムアップの後塵を期した好例である。

  ただ、この「妨げられない」という、要するにネオリベラリズムが、政府主導である限りは格差云々の不公平感の蔓延を助長してしまうのは確かであり、ボトムアップのピープルパワーがかわりにそれを成し遂げるのか、日本人には本当にそれだけの分別と行動力があるのか、その出先が「初音ミク」に行ってしまう日本のカルチャーは本当にアジアの日本として世界に復権できるのか、それは本当にわからない。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 死都日本 | トップ | ののちゃん  --「吉川ロ... »