読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

不思議の国のアリス

2009年09月04日 | 芸術
不思議の国のアリス ---著:ルイス・キャロル 訳:村山由佳 画:トーベ ヤンソン

 ルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」といえば、ジョン・テニエルによる挿絵が有名で、これでなければアリスではない、というくらい人口に膾炙されている。日本で角川から和田誠による挿絵のものが刊行されていたのを、中学生のときに読んだが、どうにも違和感があって仕方がなかった。唯一対抗しているのは、力技マーケティングで浸透させたディズニー版のそれ、くらいだろうか。
 実際、テニエルの描くキャラクターのユニークさが、さらにキャロルのアリスの世界観を増強させており、もはや両者は分かちがたくなっている。

 あるブログで、トーベ・ヤンソンの挿絵による不思議な国のアリスがある、という情報をもらったときは、それは是非とも見てみたい! と思った。凡夫な挿絵なら見る気もないが、ヤンソンの手によるものなら見てみたかった。
 断っておくと、ヤンソンってのは、あのムーミンの生みの親であるヤンソンである。コミック版とかキャラクターグッズではわかりにくいが、9冊の小説版ムーミンシリーズに挿入されているものからは、禁欲的でラフな筆致で北欧の自然を表現したヤンソンの不思議な絵の世界が見られる。自然の光景だけでなく、木箱とかぬいぐるみとかガラス瓶なんかの小物の描かれ方や、人物の後姿を遠景から描くところの妙とか、挿絵を抜きにして単独に鑑賞しても耐えられる。

入手が難しいと聞いていたが、先日それをヴィレッジ・バンガードで発見した。さすが「遊べる本屋」である。 テニエルのでもディズニーでもない、ヤンソンのアリスは、妙に手足がやせこけていて服も質素だ。髪もざんばらに近い(それはハプニングだらけの旅の結果そうなったのかもしれないけれど)。何よりも主人公としての体をなしていないほどシンプルで特色がなく、そういやムーミンの挿絵の背景で、通行人Aのような感じでこんなのいたかも、という造形だ。 だが、それがネガティブなことかというとまったくそうではなく、ヤンソンの着想は、アリスという人物をたたせることよりも、「不思議な国」そのものを描くところにこだわりを見せている。そう。「不思議な国」にあって、アリスは唯一「不思議でないもの」であり、その凡庸な姿がむしろ「不思議な国」のミステリーとファンタジーに溢れた世界を引き出している。 まず、アリス以外のキャラクターの描写、有名なうさぎやチェシャ猫やスペードの女王や帽子屋や芋虫や海亀といった面々は、テニエルの描いたものとはまったく異なる造形を見せ、アリスがシンプルなだけに彼らのほうは凄みがある。

 ただ、何よりも全体を支配している独特の雰囲気というのは、その「不思議な国」の風土の描写だろう。
 たとえば、ディズニーが描くアリスの不思議な国は、色とりどりの花が溢れ、緑はさわやかでかつこんもりとしている。どちらかといえば温帯気候のそれ、である。テニエルのは、エッチング風の描写ということもあって、ディズニーに比べればはるかにとげとげしいが、草の丈の高さや、その形状をみるに、それなりに草木に溢れた世界になっている。
 が、ヤンソンによる「不思議な国」は実に荒涼としている。はげ山のような素寒貧とした背景、ちょぼちょぼとした植生、はえていてもそれは細い熊笹のようであり、水面はどんよりと黒く、空は憂鬱な曇り空で、太陽は薄く弱く、しらじらしく天に輝く。これこそが、ヤンソンの住むフィンランドの光景なのか。
 ムーミンにおいても、自然というのは鑑賞の対象でもなければ、安寧のふるさとでもたく、たいがいは人々を不安と孤独に陥れ、自分をちっぽけな存在に感じさせるものだ。これこそがヤンソンの自然観かもしれず、アリスの不思議な世界においても異彩を放つ結果となっている。

 なるほど。たかが挿絵というなかれ。その画家を通すだけで、同じ物語がここまで異なるのだ。中学生のときはとんとピンとこなかった和田誠バージョンも、いま見れば、まったく別の感想があるかもしれない。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 特務艦「宗谷」の昭和史 | トップ | 人は原子、世界は物理法則で動く »