読書の記録

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場を支配する「悪の論理」技法

2018年11月05日 | 哲学・宗教・思想
場を支配する「悪の論理」技法
 
とつげき東北
フォレスト出版
 
 
 本書を書店でみかけたとき、著者の名前を見て、あれ? とつげき東北って人は、麻雀攻略に関する本を出してた人じゃなかったけっか? と思った。
 当時、この「科学する麻雀」はたいへん気になる本だったのである。ロジカルかつラディカルで、この人はそうとうアタマいいなと思った。
 
 人を食ったペンネームだが、この麻雀の本を1冊だけ出して、その後沈黙してしまった(もっとも本書をよむと実はWebの世界ではわりと有名な人らしい)のでいったいなんだったんだろうと思っていたわけだが、そこからずいぶん時間がたってまた全然ちがう世界の本が出た。なんかピンとくるものがあって購入することにした。
 
 
 本書はタイトル通り「悪魔」の本であろう。
 中学生、高校生あたりが読むと、あまりにもキレッキレの説得力でその魔力にとりつかれてしまいそうだ。しかし生兵法は大けがのもと。これはけっこう熟練の技であって、そうとうな訓練を要しないと、底の浅さが割れるだろう。恥をかくくらいならよいが、本書を参考に周囲の人に息巻いた結果、社会生活上とりかえしのつかないことになっても著者も出版社も助けてはくれないので注意されたい。本書でも注意深く指摘しているが、「これは正しい」とか「あれはおかしい」という主張は、主張している当人は絶対的客観尺度にもとづいて判断しているつもりでも、実は単なる主観的あるいは慣習的な好き嫌いにすぎないことに無自覚なだけであることが多い。本書を読みこなすには「正しいおかしい」と「好き嫌い」がすり替わりやすいことに自覚できるくらいのリテラシーは最低限必要だろう。
 
 ただ、この世の中のあちこちにあるルールは、誰かが得するようにできている、というのはそうなんだろうなあと思う。政治家が、官僚が、アメリカが、中国が、社長が、管理職が、先輩が、先生が、上級生が、誰かが得するようにできている。うらっ返すと、全員が得する、あるいは誰も得しない「ルール」なんてそもそも存在しない。そして日本国民である以上、日本国籍を捨てるだけの算段と覚悟がない以上、日本のルールすなわち憲法民法にしたがわなければならないのは自明の理なのだろう。いぜん3Dプリンタで拳銃を自作した人が逮捕されて「憲法上それが悪いことならば僕は悪いことをしたのでしょう」と興奮してわめいていたが、「悪いことをした」のである。
 
 ということは、①ルールを作る人 ②ルールを利用する人 ③ルールに従う人 が、どの順番で得をするか、いい目を見るか、というのは明らかなのであって、③を美徳とする規範が日本にはあるからついつい見えにくくなるが、③だけではお得な人生はおくれないのである。
 
 でも、誰でも①になれるかというとそうではなくて、そこには相当の覚悟と度胸と周到さと生活基盤と頭のよさがやっぱりいるように思う。それなくして①をうそぶいても、返り討ちにあったり、ポイ捨てされてあとは誰も助けてくれなかったりするだけなので、繰り返すけれど悪魔の甘言にはゆめゆめ注意されたし。
 学生の頃に筒井康隆や岸田秀にかぶれて調子に乗り、たいへん恥ずかしい思いをしたのが何を隠そう私である。
 

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