読書の記録

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アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか

2010年09月02日 | サイエンス
アフォーダンス入門    知性はどこに生まれるか

佐々木正人

「アフォーダンス」という言葉をちらちら聞くようになったのは今から10年くらい前だっただろうか。どちらかというとデザイン論としての文脈で引用されることが多いように思ったもので、当時、無印良品から壁掛け式のCDプレーヤーが発売されたとき、これこそアフォーダンスと思ったものだった。

ギブソンの提唱した「アフォーダンス」はもちろんこれよりずっと広義の概念である。だからこそわかるようでわかりにくい。なんとなくぼんやりとは言いたいことはわかるのだが「とある主体がふるまいを規定するのは、主体それ自身に内在しているのではなく、内部と外部の両方の関係性によって初めて成される」とでもいえばいいのだろうか。「歩く」という行為は、人間の足の筋肉機関だけに依存するのではなく、足元にある大地そのものの機能性、それは地面の弾力とか広さとか傾斜とか、さらにはその地の空気抵抗とかも含めたフィードバックの中で初めて「歩く」という行為が達成される。

だが、最近やたらにいわれる「クラウド・コンピューティング」という概念。主にコンピュータ関連のサービスやビジネスで引用されるが、実は「アフォーダンス」というのは、人間(だけではなく、動物も植物もすべてなのだが)がそこに存在し、さまざまな所作によって生きているのは、「環境」がもつ様々なリソースを「クラウド」として使っており、実は人間自身の内部ではまったく完結していないのだ、と考えるとなんとなく腑に落ちる。クラウドコンピューティングというシステムが、ソフトとハードとコンテンツあるいはデータのありかを、内部外部の区別の意味をなくしているように、アフォーダンスというのは、存在と機能と便益の関係、つまり有効な行為をなす「知性」は、もはや内部や外部の境界なくして一体のところに存在するものとして考える。本書は内部と外部の相互のフィードバックが所作を規定するさまざまな事例が載っている。

これを逆転させると、「クラウド・コンピューティング」というのはアフォーダンスの関係になっている、といえる。
コンピュータネットワーク環境がついに知性を遍在させることに成功したのである。それまでもネットワーク環境というのは情報のリソースになりえたのだが、それはあくまで書庫としての役割でしかなかった。あるいは電話の代行でしかなかった。
だが、クラウドによって、知識処理がネットワーク環境に委ねられるようになると、その処理はクラウドが持つ環境要素に依存することになる。速度も精度も安定度も依存することになる。mixiでサーバがダウンして大騒ぎになったことがあったが、これも織り込み済みになる。クラウドコンピューティングに関する限り、リアル環境とコンピュータネットワーク環境が等価になったわけだが、そう考えるとたしかに本当に大丈夫なのか、と思ってしまう。
クラウドコンピューティングに関してはセキュリティについてずっと問題視されているが、これまでのプロバイダとかソーシャルメディアの供給会社と異なり、世界システムそのもののセキュリティが問われているわけで、単にバグだダウンだと言っているわけにはいかない。

高橋源一郎の小説「ペンギン村に陽は落ちて」は、「現実」と「夢」が相互作用し、ついには境界がなくなっていく話だが、リアルとネットワークの境界がなくなった時、小説が予言するような黄昏と昇華は起こるのだろうか。



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