読書の記録

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経度への挑戦 一秒にかけた四百年

2010年09月15日 | サイエンス
経度への挑戦 一秒にかけた四百年

著:デーヴァ・ソベル
訳:藤井留美


 ずいぶん前に、「うんちく」が流行ったことがあって、山田五郎が科学技術に関する「うんちく」ということで、ニュートンの万有引力研究もハレーの天体観測もガリレオの振り子実験もすべては大航海時代に大洋の真ん中で正確に時を刻む時計をつくろうとしたため」というようなことを述べていた。うろ覚えなので、細部がだいぶ間違っているはずだが、おおよそこのようなことだった。
 で、その「うんちく」に関してはそれっきりだったのだが、「正確に時を刻む時計への研究が科学技術の発展をもたらした」という文脈だけが頭のかたすみに残ったまま、数年が過ぎた。
 先日、書店でたまたま本書「経度への挑戦」を目にして、ピンときたのである。


 正確にいうと、こうことだ。
 海洋上で船が現在位置を知るには(地図上のどこにいるのかを知るには)、自分の今いる緯度と経度がわからなければならない。緯度というのは南北の縦軸のどこに位置するかで、これは北極星の見える角度から比較的容易に算出できるらしい。
 いっぽう、経度を知るのは困難だそうで、陸上では天体観測を何時間もかけることでなんとか可能だったが、足元が揺れ、気象が不安定な海上ではほぼ不可能だったそうだ。
 とはいうものの、航海中の船が現在地を見誤ることは、重大な海難事故に直結しやすく、実際に位置の判断を見誤って多数の死者を出す事故が頻発したため、経度を知る方法を確立することは悲願といってもよかった。

 そこで、イギリス政府は「経度法」という賞金制度を制定した。いろいろ細かい条件がついているのだが、要は正確に経度をはかる方法をつくった人に莫大な賞金を与える、というものである。

 この賞金をめぐっては、大きく2つのアプローチがあった。
 1つは、天体観測を精緻化させ、そこから現在の位置を導き出す方法で、月の運行や木星の衛星食をつまびらかに観察する。これの難点は、海上だと足元がおぼつかない、最終的な答えを導き出すのに何時間もかかる、計測者にはかなり複雑で高度な知識が求められる、などあるのだが、さまざまな試行錯誤の末、最終的にはかなりいいところまできた。これは「月距法」と呼ばれている。当時のグリニッジ天文台の台長ネヴィル・マスケリンが、この手法での権威となった。

 もう一方が、本書の主人公、ジョン・ハリソンがやり遂げた方法である。
 「経度」を知るには、海上にいる自分が今何時何分なのかが正確にわかればいいのだそうである。そこからいろいろ逆算すれば経度もわかる、ということらしい。
 ただ、この「何時何分」というのはかなりの正確さを求められ、だいたい12時15分くらい、などというわけにはいかないらしい。手元の小さな誤差が最終的に位置を割り出すときに大きな誤差になるからである。
 だが、当時の時計は正確でなかった。「ぜんまいをまいている間は秒針が止まっている」なんてのも、経度測定のためにはアウトなのだが、それに対して当時の時計は「規則正しく遅れる」どころか、船の揺れや温度・湿度で不規則に遅れたり早まったりする。したがって、正確にいま何時何分かを図ることはできず、よって経度もわからない。
 当時の常識では、「海上で正確に動き続ける時計」というのは、永久機関か錬金術かのようなファンタジーだったようである。
 それをジョン・ハリソンは実現させてしまった。「機械式時計」の誕生である。

 だが「月距法」こそが唯一の方法と主張するマスケリンとその周囲の勢力により、ハリソンとハリソンの時計はなかなか正当に評価されず、あまつさえ誹謗中傷さえ行われた。開発した時計を分解させたり、没収したりもした。支持者の地道な運動によってジョン・ハリソンの業績が認められ、賞金が支払われたのはハリソンが晩年になってのことだった。

 本書は、ハリソンがメインなので、そんなハリソンを悲劇の主人公として描かれ、マスケリンはかたき役となっているわけだが、さてマスケリンの主張は本当にただの誹謗中傷か、というと必ずしもそうでもないように思う。

 確かに経度法の賞金の対象としては、ハリソンの開発した機会式時計は十二分に合格していたわけで、ここだけみればマスケリンは難癖をつけたことになる。

 だが、この経度法設立の背景にあったのは、航海中の船が自分の場所を見失わないようにするためだった。つまり方法の普及と汎用性が求められた。マスケリンの主張は主にこの部分にあることがわかる。この問題意識そのものは極めて正しい。

 月距法に比べてハリソンの機械式時計が持つ長所は、誰でも使える、曇り空でも使える、すぐに結果がわかる、というところにある。この点で、月距法は太刀打ちできない。
 だが、ハリソンが開発した時計は、とにかく精緻極まりなく、複製をつくることが極めて困難だった。かなり腕のいい他の職人が1個の複製をつくるのに4年かかる、というシロモノだった。材料もダイヤモンドとか特殊な木材など、希少なものを使っていたので、すこぶる高価なものになった。あまつさえ、ハリソンは設計図をなかなか公開しようとしなかった。

 つまり実用的という面では月距法もハリソンの機械式時計もどちらもまだまだ問題があったのである。

 したがって、航海技術の向上という意味では、本書では最後の2章で触れられているのみなのだが、その超精密で高度なハリソンの機会式時計の仕組みを、「量産化」させたジョン・アーノルドとトーマス・アーンショウの2人だ(「クロノメーター」の特許争いは現在に至っても結論が出ていない)。これによって、大海に散った様々な船が時計を手に経度を知り、安全な航海ができるようになったのである。

 「量産化」というのはまさしく「民主化」であって、自動車のフォードの例を持ち出すまでもなく、時代を変える。もちろん、量産化の前には、ハリソンのような技術革命がある。一方で、量産化には量産化の技術というものが別にあって、こちらも同じくらい重要だと、本書を読んで図らずもそんな感想を持った。
 つまり、本書はハリソン偉人伝ではあるのだが、「月距法」のマスケリンや、量産化にこぎつけたジョン・アーノルドとトーマス・アーンショウのはたらきがあって現在の航海法や時計がある。ある業績を一個人に集約して英雄視されることは往々にしてあるものだが、科学技術の発展というのは決して一個人の叡智で終わるものではないのだなあ、などとたぶん著者の思惑とは違う感銘を受けてしまったのであった。

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