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読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

平凡倶楽部

2011年04月30日 | コミック

平凡倶楽部

こうの史代

本ブログでは何度目かのこうの史代である。彼女の単行本はたぶん全てコンプリートしてきたつもりだが、多忙にかまけて本書の刊行を見逃していた。本日、ようやく手にとって読んでみて、凍りついていたところである。

なんという発想と表現の多様性の持ち主かとおそれおののく。これまでの諸作品でも随所に実験的な試みが散見されてきたが、そんなこうの史代の実験ラボみたいである。観察対象は「平凡」であっても、ここにくりひろげられる世界は非凡極まりである。はっきりいってこれで1200円は安い。5、6000円の芸術書や思想書に匹敵する内容である。

とにかく驚くことは、実験が実験に堕しておらず、それが作品表現の深みを2倍も3倍もしていることである。

たとえば「古い女」は、ここで描かれる世界そのものが戦慄と福音が同居する摩訶不思議なテイストをもった作品だが、これが古いチラシの裏に描かれることで、ちょっと尋常でないリアリズムをつくりだす。父親の病院見舞いを手書きで記したエッセイ「遠い目」は、望郷と諦観がにじみ出たまさしく「遠い目」を感じさせる文章であるが、この文字の配列や太さの妙で、遠目にみると、病院の廊下の光景になるというだまし絵になる。この廊下の光景というのが、逆光に照らされてコントラストがきつい不安げに満ちた廊下なのである。これひとつでトラウマになりそうだ。予定調和なマスコミインタビューにわだかまりを覚える「なぞなぞさん」、記号的かつ抒情的という高度なバランスで沈黙の哀歌を描いた「へ海らか山」、正岡子規よろしく病床からの夕顔観察「花かぜの夜」、いずれも生半可でない対象への観察の思いと、そして表現上の試みがある。

こんなことばかりしていてこうの史代の健康は大丈夫なのかと思っていs舞う。なんかもう命を削って描いているようで、長生きしないのではないかとまで危惧してしまう。だから、最後のあとがきで“愉快だったなあ‥”と書かれると、ほっとすると同時に、これを愉快の一言で済ませられてしまうことにまた戦慄を覚える。

誤解をおそれずへんな言い方してしまうと、凡人の神経の持ち主ではないんだろうと思う。鬼才級の詩人や芸術家のみが持ち合わせているような感覚知、ある種の狂気までも感じる。鋭利な観察眼とたしかな創作技術、もはや漫画家や単なる表現者の枠を超えてしまってた、思想家の人である。

 

 

 


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少年雀鬼 東

2010年10月06日 | コミック
少年雀鬼 東

中島 徹

物の試しにあえてついてこれなそうな話を書いてみる。


突然、20年以上も前に少年サンデーで連載されていたどちらかというとマイナーなマンガをここにとりあげることにする。
なんでこんなことを思い出したかと言うと、先日同年代の人と話していて、もりあがってしまったからである。

中島徹という作者は、現在ビッグコミックオリジナルで「玄人のひとりごと」というのを長期連載している(なんともう20年以上になる)。
この「玄人のひとりごと」の主人公は、南倍南(みなみばいあん)という。着物の着流しと長髪がトレードマークで、ありとあらゆる賭け事に一家言がある。

が、この南倍南という人物、実は「少年雀鬼 東」で東の敵役として出てきた人物のスピンアウトなのである。いまや本家よりもずっと長期連載となった。

では、この「少年雀鬼 東」というのはいかなるコミックであったか。
タイトルで想像できるが、少年誌では異色の麻雀マンガであった。ただ、麻雀劇画などとは一線を画すこれは、ちっとも麻雀マンガらしくなかった。テクニックの妙とか、心理的駆け引きとかそういうものはみじんもない。

ではどういうマンガだったか。

中学生の少年「東槓(ひがしかん)くん」は、「東を槓すると必ず役満」という特技をもっている。
実にこれだけである。
この特技で、東くんは、数々の難敵強敵(もちろん麻雀の)を倒していく。
このコンセプト一発で、メジャー少年誌の連載デビューを決めたのだ。リアルタイムで覚えているのだが、当初、何かの穴埋めか新人企画かで読み切りで登場し、その評判も手伝って連載となった。その連載はコミック6巻分におよび、先に挙げたように今も連載の「玄人のひとりごと」につながっていくのである。

現実において、「東を槓すると必ず役満」というのは、かなり無茶がある。だからナンセンスなのだ。
要するにこれは必殺技を持つヒーローもののプロットを、麻雀という少年誌にとってまさかというモチーフでやってのけたというシロモノなのである。

こういうのをビッグアイデアというのだろう、と件の友人と盛り上がったのである。
「東を槓すると必ず役満」というこのビッグアイデアが、作者の人生を決めたといってもよいのである。

実は「少年雀鬼 東」は、このアイデアだけに寄りかかっていたこともあり、正直単行本で2巻目あたりからもう苦しくなっていった。対戦相手の設定に、あまり応用が効かないのである。武力ものならば、ドラゴンボールやキン肉マンなどでおなじみ「敵役のインフレーション」という現象が起こるのであるが、なにしろ麻雀という制約があるものだからあまりその幅もない。「少年雀鬼 東」も最初は次第に敵役が強くなっていったが、この手法が手詰まりになって、相手が変態性を帯びてきたり、歴史上の人物になったり、決戦場所が宇宙や海中になったりして、オリジナル役満が次々飛び出し、その荒唐無稽さに作者自身「東もどこまでもつかね」などと開き直るサマとなってしまった(最後の最後の最終回にこれまで全くというほど出てこなかった九連宝燈であがって終わったのは、努力賞ものの有終の美といえよう)。

だが、逆説的に、コアになるアイデア一発でここまでできる、という話でもある。
かくもアイデアというのは大事なのだ。


さて、「玄人のひとりごと」の南倍南は、連載初期に登場したこともあって、東の敵役の中でも、“まっとうな強敵”であった。、「東を槓すると必ず役満」の東槓に対し、南倍南は「南を絡めると必ず役満」という特技を持つ人物として登場した。
もう絶版だからネタばれするけれど、そんな2人の真剣勝負は、東槓の特徴を見抜いた南倍南が手元の東を切らずに(つまり、東に槓させずに)役満に持っていくということで、なんと国士無双を決めるという実にすげえ展開となった(もちろん現実味はありませんよ)。それに対し、主人公東槓はオーラスで、大四喜、字一色、四槓子、四暗刻単騎(麻雀理論上最も高い得点となる牌列。現実はまずあり得ない)を決める、というまさかの大逆転を見せるのである。
どうだ、興味ある人は俄然アドレナリンが出るであろう。で、大半はなんのこっちゃらさっぱりわからんという話だろうと思う。

この南倍南、なかなか一回で消えるには惜しいキャラと思ったら、「玄人のひとりごと」にスピンアウト。それも麻雀という特化した特技だけでなく、ギャンブル全般、さらにはあらゆる雑事すべてに玄人家言を持つという「民主化」を果たし、めでたくメジャー誌で連載20年。これもアイデアである。

いやほんと、アイデアというのはバカにならない。


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この世界の片隅に(下巻)

2009年07月25日 | コミック

 この世界の片隅に(下巻)---こうの史代

 上巻中巻そのつどにレビューを書いた。下巻も刊行されてすぐに読んだ。
 もちろんとても感銘を受けた。落涙した。同時に大きな虚脱感も襲った。すぐに感想をロジカルに語る気になれなかった。そして、むしろなんだか整理し切れないもやーっとした感じも残った。
 下巻が刊行されて2か月くらい経つ。その間にネット上でも、リアルの場でも、この全3巻によせる書評や感想は多く出た。目につくものは読んでみた。多くは絶賛であった。僕もこの野心に満ちたこの作品に称賛を惜しまない。しかし、この「もやー」がやはり消えなかった。なんというか、単なる「戦争もの」についてお約束についてまわる平和や愛の大切さに終始してしまっては、この作品の肝心なところを見落としてしまっている気がしてならないのだ。戦時中のじみーな生活を再現させてみたところもこの作品の主眼のひとつであるが、それともまた違う何かが、この作品の本質を占めているという予感だけがあった。

 先だって、こうの文代の出世作の「夕凪の街・桜の国」と、一見その世界とは離れた「さんさん録」と「長い道」を読み返し、少しわかったことがある。

 僕がずーっと、そう上巻のときから気になっていたといえば気になっていたのは、主人公である「すず」のキャラクター設定である。「どこかぼーっとしていて、ドジで、なぜか日常生活の知恵はずば抜けてあって、そして案外頑固なところもある」。この設定、どちからといえば「萌え」とでもいったような、ある種の観念的な人物であり、あまりリアルでない。男性のある種の欲望の対象とはなりつつも、現実にこんな女の人はいない。
 が、実はこうの文代の作品は、この手の人格を持つ登場人物が主人公級を張ることが多い。「ぴっぴら帳」のミキちゃん、「長い道」の道さん、「さんさん録」の礼花さん、「街角花だより」の日和店長などがそれにあたる。
 が、これらの作品は、こうの文代自身の言葉を借りれば「ギャグ」路線の作品である。いわば、このキャラクター人格そのものが事件や事態をつくりだしやすい。

 しかし、もちろん「この世界の片隅に」はそれだけの話ではない。むしろ「この世界の片隅に」は、銃後の生活のリアリズムに満ち溢れ、戦争の影も回を進めるに従って色濃くなり、ドキュメントを下地にしたフィクションといって差し支えない。が、それだけに主人公「すず」だけが、奇妙に観念的な存在になる。まるで、実写映画の中で、主人公だけがアニメになっているかのような。
 僕が、なんだか「もやー」と思う座りの悪さを感じたのはこの点だったのである。で、先に言っておくが、この点こそが、この「この世界の片隅に」が持つ偉大な価値の真髄だったのである、と断言してしまう。

 広島原爆の被爆を扱った「夕凪の街・桜の国」の主人公は、「夕凪の街」の平野皆実と、「桜の国」の石川七波であるが、この2人は「すず」をはじめとするこの手の人格を持たない。つまり、「夕凪の街・桜の国」という作品のテーマにあたって、「すず型」の人物はむしろ逆作用しやすいということだ。
 ・・・・と当初は思っていた。が、むろんそうではないのである。

 確かに「夕凪の街・桜の国」の主人公は、平野皆実と石川七波なのである。が、よくよく読めば、「夕凪の街・桜の国」で、原爆の悲劇に始まったかのようなこの物語を、人を愛することの素晴らしさに昇華させ(桜の国(2)の圧巻な最終5ページ!)、あたかも福音のように我々に感動を与えるに至る中心人物は、皆実の義妹であり、七波の母である太田京花ではなかったか、と感じるのである。被爆の血を持ち、さらに蓋然的設定として在日朝鮮人の出と見られる彼女をめぐる博愛こそが、「夕凪の街・桜の国」を“単なる戦争もの”から逸脱させ、たぐい希れなる文学的境地に達した奇蹟の作品とたらしめている。
 で、この太田京花が、実は「すず型」の人物なのである。「どこかぼーっとしていて、ドジで、なぜか日常生活の知恵はずば抜けてあって、そして案外頑固なところもある」人なのだ。

 そこで、もう一度「この世界の片隅に」を考える。
 「この世界の片隅に」の下巻は、当然のように悲劇がたたみかけられる。すずの幼い姪は、焼夷弾の爆風によって命を奪われ、すず自身も利き手を失う。広島市内に住む実家の家族たちは原爆症の兆候を現しだす。玉音放送に混乱し、やり場のない感情に苛まされる。また、最後に孤児の子供を引き取るといった「救い話」もある。
 が、実はそれらさえも、「この世界の片隅に」が最終的にもっていきたかった世界への一里塚でしかない。この作品の白眉は、最後にカラーで、失われたはずの右手で描かれる呉市の夜景であるが、ここに我々は確かに希望を見る。が、この希望は上巻のプロローグから、地味と波乱の紆余曲折を経ながら延々と積み上げられ、ようやくここに至ったという祝福にも似た希望である。果てしなく階段を着実にあせらず端折らず一歩一歩上がっていく先に必ず現れる希望の世界、のもっとも究極の作品がこの「この世界の片隅に」だ。その一歩一歩は、まさしく世界の片隅での出来事であり、マクロな社会視点から見出すことができない。だが、そこに確実に幸福と希望を求めて愚直に階段を一歩一歩あるいていく真実がある。
 この階段を歩み、我々に希望を見せる福音者こそが、「すず型」の人格を持つものなのだ。それは「夕凪の街・桜の国」の太田京花だけではない。「ギャグ」のはずの「ぴっぴら帳」のミキちゃんも、「長い道」の道さんも、「さんさん録」の礼花さん、「街角花だより」の日和店長も、最終的にこのような到達点に至っている。
 つまり、こうの文代の創作の根底にあるテーマとして、長い階段を愚直に一歩一歩あがっていく先にある希望がある。そして、このことを示す体現者として「どこかぼーっとしていて、ドジで、なぜか日常生活の知恵はずば抜けてあって、そして案外頑固なところもある」という人格を与えているのだ。これは「萌え」などではなく、「愚直」の象徴なのである。その「愚直」の成す力は、社会的には非日常の極北ともいえる戦時中であってさえも、その力を失わないのだ。

 利き手を失い、親族を失いながらも絶望の慟哭というよりは淡々とした諦観に見受けられるすずの言動は、だからこそ愚直な一歩一歩を際立たせ、我々に「後戻り」も「立ち止まり」もさせない変わりに、「一段抜かし」や「端折り道」もないことを示す。社会や環境がどんなにドラマチックであっても、個人本人が幸福をつかむには目の前にあるものをひとつひとつこなしていくアンチドラマチックな積み重ねしかないのだ、というテーゼが、こうの文代の真骨頂であり、社会のドラマチックと、個人のアンチドラマチックをもっとも対蹠的に描いてみせた作品こそが「この世界の片隅に」だったのだ。

 世の中の成功物語の多くが、いかに「ドラマチックに成功したか」に腐心し、いかにムダを省いておいしいところだけをつまみ食いする合理化こそを「頭のよい人のふるまい」と説き、そして陳腐化ていることを思えば、この作品の類まれなる価値は疑いようがない。


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宗像教授異考録 第9巻

2009年02月18日 | コミック
 宗像教授異考録 第9巻---星野之宣

 「伝奇考」の頃に比べて、我田引水というか、荒唐無稽さに拍車がかかったような印象を持っていたのだが、この第9巻の第1話におさめられた「鯨神」は、なんだか実に心に染みた。感動したといってよい。電車の中で読んでなかったら落涙してたかも。

 イザナミ・イザナギ神話との関連性の信憑性あるいは説得性はともかくとして、ここでは日本人の捕鯨や鯨食文化にひとつの視点を投げかけている。それは、昨今かまびすしい動物愛護VS固有の食文化といった図式でもなければ、いのちを食することの宿命論でもない。言ってみれば、人類学とか民俗学の発想から起こった神とか宗教哲学みたいなものなのだが、それだけに単純な二元論や善悪論の相克を超えた描写がある。特に、浜辺に打ち上げられた鯨に涙を流しながら刃物を突き付けてその鯨の命を絶った老人の姿は、宗教画のそれをみているようなインパクトを与えた。これ、単館上映系の映画としてもできそうなくらい、ビジュアル説得性がある。

 間奏曲のように配置された短編「雁風呂」の切なさも、浅田次郎的な感傷がいい塩梅にかもし出されていていい。このエピソードはつい人に話したくなる。第3話(本巻最終話)の星の夜空にスペクタルなドラマを描いた「女帝星座」も(これ、プラネタリウムの上映コンテンツにしたらたいそう見栄えがして面白いと思うぞ)、久々に宗像教授シリーズの真骨頂を見た気がする。

 はっきりいって、この宗像教授シリーズ、なかなか連載でクオリティを維持しながら定期的にアウトプットしていくのはツライと思う。出来不出来があるのはある意味仕方がないのだが、その中でこの第9巻はかなり珠玉のクオリティになったと思う。もうじき第10巻出るけれど今度はどうかな?

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イエスタデイをうたって

2008年11月20日 | コミック
イエスタデイをうたって(第6巻)---冬目景

 カタツムリのごとく物語が前に進まない連載マンガとしてそのスジ(?)には知られる。
 連載が開始されてもう10年経つが、Wikipediaの説明を借りれば、「1年間の掲載が5回に満たないこともあり、3巻が出てから4巻が出るのに2年以上、4巻から5巻までほぼ3年かかっている」スローペースぶりだ。このたび第6巻が出たが、第5巻との間隔はほぼ1年で、これは、これまでになくハイペースだ。

 連載のスピードだけでなく、マンガの世界内での登場人物の心境や境遇も遅々として前に進まない、堂々巡りローテンション青春恋愛物語なのである。基本型はリクオ・ハル・榀子のゆるーい三角関係で、そこに派生図のようにいろいろな人の惚れた腫れたの片思い矢印人間関係が続いていくのだけれど、6巻目にして誰一人手をつなぐところさえ行っていない。巻を追うにしたがって、登場人物の数だけは横に広がっていくけれど、肝心の中心人物たちのこの心境の進みの遅さは、確信犯的とさえ言える。ご都合主義で次々展開していくラブコメのアンチテーゼではないかとさえ思わせる。

 誤解なきよう言うと、僕はこの超微温的ヌルさがなかなかツボで、第1巻から買い続けてきた。何よりもこの人、「絵」がスバラシイ(美大油絵科出身らしい独特の筆致)。なんだかんだで10年の連載になっているということは、読者の評判も高いのだろう。

 これは当て推量でしかないのだけれど、作者はそもそもこの物語をがしがし前に進めようとは思っていない。ストーリーの「展開」は、この作品のコンセプトの中心にはないように思える。なんというか、場面、情景、あるいはちょっとしたエピソード、それを描くための言わば「連作」、あるいはミュージシャンのアルバムみたいな作品なのである。だから、いろいろな場面に漂う微妙な表情や風情の妙は一級品とさえ言える。ただ、まったく何も進展がないのもなんなので、一応全体的にも物語はゆっくりのっそり動いているという感じなのだ。

 というわけで、一見果てしなく足踏みをしているような物語だが、実は少しずつ前に動いている。第1巻から第3巻まではまさしくカタツムリのごとくだったが、第4巻では芋虫くらいのスピードになり、前巻である第5巻ではいよいよ亀くらいの歩みくらいにはなった。いよいよスピードアップか、と思わせた最新第6巻。さらに牛歩の速度にまでなって、いよいよ、おー!というところで時間切れ。第7巻に委ねられてしまった。次が出るのは何年後になるのだろう。

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毎週かあさん ―サイバラくろにくる2004-2008

2008年11月05日 | コミック
毎週かあさん-サイバラくろにくる2004-2008----西原理恵子

 西原理恵子、もといサイバラの仕事の中でも今もっとも大看板になっているのは、毎日新聞日曜版に連載される「毎日かあさん」だ。ただ、この「毎日かあさん」は本人によれば「善良MAX」でふりきっている作品というわけで、サイバラ作品のサンプラーとして適切かどうかはわからない。以前は、黒サイバラ・白サイバラとか無頼派・叙情派なんて言い方をしていたが(本人曰く「品ぞろえの豊富さがじまんな定食屋」)、「毎日かあさん」は言わば白サイバラ最右翼といったところだろう。

 僕は「できるかな」や「鳥頭紀行」あたりの白黒中間地帯あたりがもっともツボっているが(とはいえ「ものがたりゆんぼくん」は不覚にも落涙した)、初期の狂犬マンガ「恨ミシュラン」や「まあじゃんほうろうき」あたりが一番よかったと言う友人もいる。

 ところで、本書は「毎週かあさん」。「毎日かあさん」ではない。出版元も違って、こちらは小学館である。だが、表紙のデザインのレギュレーションがそっくりにつくってある。
 20年来サイバラ作品を追っかけてきた自分にとっては、いくら表紙のデザインが似ていても、タイトルが「毎週かあさん」で出版元が小学館、と気付いただけで、これは確信犯的なセルフパチモンだと思ったが、「毎日かあさん」でサイバラを知る人は、スピンアウト作品だと思って買ってしまう人がいるかもしれない(コミックとして扱われると書店によってはビニール封をしてしまって中身が確認できないだろうし)。

 ただサイバラという人、単行本化に仕立てる際の商品化には非常に気を使い、なんとかお代に見合う作り(サイバラクオリティとでも言おうか)をするので、たとえ「毎日かあさん」からのスピンアウト作品と思って買った人がいたとしても、ブログみたいな感覚で読めて、それなりの発見と面白さはあるのではないか。今回の場合、クロニクルを解説するようなコメントが随所で書き下ろされており、この文章がまた味がある。
 4年分を通して見ることで、最初のあたりは手探り感があるが、だんだん調子が出てきて、マンガがどんどんこなれてくるあたりも興味深い。

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雷とマンダラ

2008年10月22日 | コミック
雷とマンダラ---雷門獅篭

 たまに、寄席にいって落語やチープな色物を観るのは好きである。その中で「紙切り」は、あれは掛け値なしに見ものだ。僕が中学生の頃、2代目正楽を観たことがあるのだけれど、次々と「花火」とか「お月見」とか「盆踊り」とか「ウルトラ3兄弟」とかつくるのを目の当たりにして、心底たまげた。
 あの「紙切り」ってのはマネできそうでなかなかできない。「ふーん、ハサミじゃなくて紙のほうを回すのか」とか、「必ずしも一筆切りでなくてもいいのか」などとコツをつかんで挑戦してみるのだが、ありゃやっぱ熟練ですね(でも何回か外国人にやってあげた。間違いなくウケます)。

 その紙切りの名人の一人に大東両(だいとうりょう)という人がいた。数年前に亡くなってしまったが、晩年になってこの人、ガンダムのモビルスーツを全部紙きりでやってしまうという芸を極めてしまった。70歳を越えてガンダムに出てくるカタカナを全部覚えるだけでもすごいのに(シャアとかザクとかズゴックとかですよ)、そのすべてのデザインの違いをソラで覚え、しかもそれを全部紙切りで実現してしまい、舞台で客から注文とって即興芸にしてしまうってあなた尋常じゃないですよ(もちろん下書きとか切り取り線とかないのよ)。

 そしたら、その大東両がガンダム紙切りを極めるまでの一連のエピソードがマンガになっていた。それが本書である。若手前座であるガンダムファンの作者が、面白半分にこれ切ってみてよ、とシャアの絵を見せたのがすべての始まりで、そこから夜な夜な勉強してついに全種類をマスターしてしまったらしい。勉強って大事だなあと思う。

 ところで、どうもタイトルに見覚えがあると思ったら、かつて週刊モーニングで連載されていた「風とマンダラ」がいろいろ紆余曲折あってここに落ち着いたらしい。立川流を破門された著者が、名古屋は大洲演芸場に流れ着き、そこでの日々が4コマで綴られている。
 だいたい、寄席演芸場ってのはどこもうらぶれているもんだが、大洲演芸場は最も客の入らない演芸場だそうだ。僕は行ったことはないのだが、今度名古屋にいったら覗いてみるか。

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大問題‘08

2008年08月29日 | コミック
 大問題‘08---いしいひさいち・峯正澄

 いしいひさいちの「大問題」は、はっきり言って「日本の論点」の100枚上手だと思う。絶妙なポイントのずらしは、実は物事の本質をついているからできるのであって、その慧眼は凡百のほにゃらら評論家のおよぶところではない。

 だいたい、いしいひさいちは僕が物心ついたとき、既に「がんばれタブチくん」や「おじゃまんが山田君」の人として、有名人だった。僕はまったくプロ野球の興味のない人だったのだが、それでも、タブチくんはじめ、ヒロオカやヤスダは強烈に叩き込まれた。
 それから幾星霜。おそるべき仕事量だ。かつて調べてみたらそのときは、新聞連載ふたつ、週刊誌連載ふたつ、月刊誌連載みっつをこなしていた。どうやったらそんなことできるんだろう。しかも、ほとんどと言ってよいほどクオリティが崩れない。「鏡の国の戦争」「忍者無芸帖」「地底人」「名探偵退場(コミカルミステリーツアーの前身)」「バイトくん」。やがて「B型平次」や「文豪春秋」、「CNN(PNNの前身)」「経済外論」「ののちゃん」。異色の「現代思想の遭難者たち」。いったいどういう頭と腕をしたら、この仕事量をこの長い間こなせるというのか。実はいしいひさいちというのは何人かの集合体なのではないか。だからメディアに出ないのではないか???

 ところで、「大問題」には峯正澄のエッセイ風時事解説がついている。amazonのレビューなどみると、峯正澄のパートに関してはわりと辛口な評価が多いのだが、僕はこちらもけっこう好きである。なんだかアンニュイな、やさぐれた、でもちょっぴり哀しみと同情を含んだ善意な時事批評で、男性エッセイによくありがちな、世の中けしからん、まったくなげかわしい節(これの元祖は鴨長明「方丈記」だ、というのが清水義範の説)とは一線を画している。

 
 

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宗像教授異考録

2008年08月06日 | コミック
 宗像教授異考録---星野之宣

 高校生の頃だったか、映画「2001年宇宙の旅」について友人とアツイ議論を戦わしていたら、突然同級生のS君が割り入ってきて、「2001夜物語」という、本家取りした傑作があるのだ! と高らかに言うのであった。読んでみたら、第1巻の最終話に収められた「魔王星ルシファー」のエピソードの圧巻ぶりにくらくらきた。これ、ハリウッドで映画化すればすごいことになるんじゃないの? と本気で思った。

 やがて、社会人になって、今度は隣の席の先輩となぜだか「邪馬台国論争」になり、そしたら「ヤマタイカ」というものすごく面白いコミックがあるのだ、と翌日それを貸してくれた。最後に富士山が噴火して「ねぶた」の狂騒が首都圏を蹂躙していくところのカタルシスは、なんだか古来から眠る自分の血が目覚めたかのようだった。そういえば、僕は伊福部昭の音楽も大好きなのである。

 そんなわけで、星野之宣という漫画家には、一種畏敬の念を抱いている。当然「宗像教授伝奇考」は全巻揃えていた。
 が、続編が始まって、単行本も次々出ていることに全く気付いていなかった。書店で並ぶ背表紙だけ見て、「伝奇考」ではなくて「異考録」になっていることに気付いたのがつい最近。完全にぬかった。

 「伝奇考」と同じ題材をもう一度使っていたりしながらも(「隕鉄」や「海彦山彦」など)、「異考録」のほうがオカルティズムが増したような気もする。そのあたりを大胆不敵とするか勇み足とするかは評価が微妙だが、しかし山本勘助をして、たたら製鉄衆のボスであったと仮説をたてたり、語り継がれている巨木建築である出雲大社神殿は、実は闇に消えた別の巨木建築の「穢れなきコピー」であったとするロジックあたりは、面白い着眼点だと関心した(聖徳太子の一族がキリスト教信者だったというのはさすがに・・)。物部氏や秦氏に関する考察はあながち的外れでもないような気がする。

 これはあくまでマンガなわけだけれど、民俗学には多分にこういう荒唐無稽さと紙一重なところがある。それがどうしても歴史学型の文部省史学教育カリキュラムにはめこまれにくい。議論の多い近代史の解釈云々の話ではなくて、それ以前の時代にしても、歴史学というのは支配者側の推移を文献資料と発掘調査の積み重ねで迫る学問が中心になるので、口碑や風習から導き出す庶民の生活史みたいなのが相手にされにくい。まして、理系の領域である地球科学や薬学の領域に因果が及ぶような話は、縦割りのセクショナリズムも作用してしまう。

 一言で言うと、「『記録』と『記憶』」のどちらをエビデンスとして優先させるかということになると思うのだが、我々が無意識のうちに行うような所作や日常言語、あるいは地名なんかに潜むふかーい歴史なんかは、まさしく「記憶」そのものである。これらの探求に関しては、未だにオカルトやB級雑学といった色眼鏡で見られることが多いのは惜しいと思う。

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この世界の片隅に(中)

2008年07月23日 | コミック

この世界の片隅に(中)---こうの史代

上巻がどちらかというと貧しいながらも平和な空気が漂っていたのに対し、中巻ではかなり戦争の気配が濃くなってきた。

 濃くなってきたどころではない。上巻でたびたび登場した実兄が、英霊となって帰る。知人が結核で亡くなる。すず自身も慢性的な栄養失調を抱えるようになる。

 なんとなくほんわかと始まった物語は、じわじわじわじわと悲しみの色を帯びてくる。この感じは「窓際のトットちゃん」を思い出す。「窓際のトットちゃん」では、最終章でトモエ学園が空襲で焼ける。この「この世界のかたすみに」も、作者が連載前から明言していたように、昭和20年7月の呉大空襲にむかって一月ずつ話が進んでいるのだ。幼馴染みが勤める巡洋艦「青葉」も、この空襲で撃沈されることも、史実で明らかである。

 このままいけば、下巻の出来は、こうの史代の手腕だから、「火垂るの墓」を上回る他に得がたい感涙と虚脱の読後感が期待できるだろう。それにしても細かいひとつひとつの描写の考え抜かれた仕事には心底関心する。書き下ろしではなく、連載でこれを維持するのは容易でないだろうと想像する。


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鈴木先生(第5巻)

2008年07月14日 | コミック
 鈴木先生(第5巻)---武富健治

 「裏×裏=表」という奇跡的な荒技で、教師マンガとしては異質にして孤高な作品であるが、今巻のエピソード「掃除当番」は、作者にとってかなり思いいれがあるようだ。
 というのは、ほとんどまったく同じプロットの話(コマ割りや構図もほとんど同じ)を既に過去において発表しており (作者は自分のホームページ上で全頁公開している)、作者自身によるその解説には一番の自信作と述べているからだ。

 つまり、「鈴木先生」のルーツは、このエピソードにある、といってもよい。

 ただ、そうするとひとつだけ興味深い問題がでてくる。
 現在連載されている「鈴木先生」は、もちろん教師である鈴木先生の視点で徹底される。
 それに対し、この「掃除当番」では、先生はほとんど存在感がなく、その問題意識はすべて主人公の女生徒である丸山のモノローグで表現される(「鈴木先生」では、彼女の日記が発見されるという形で再現される)。
 つまり、「鈴木先生」のルーツであるこの短編「掃除当番」では、教師役が不在の物語が完結しているのだ。

 要するに「鈴木先生」において、主題というか、描きたい対象や因果はすべて、言わば生徒側の倫理において発生し、生徒側の倫理において回収されているのであり、教師側から新しい倫理を獲得しているわけではない。この限りにおいて、鈴木先生は、実は壮大なる狂言回しでしかない。極端に言えば「鈴木先生」の物語の肝心なテーマにおいて、教師は不在なのだ。
 つまり、生徒側の「問いかけ」に対し、教師側は「解答する」という関係にはなく、せいぜい鈴木先生の役割としては、「問いかけ」られたものをデータを補完して整理して投げ返すだけなのである。で、この「状況の整理」に大汗かきながら自問自答するところがこのコミックの見所なわけである。
 だから、事件によっては非常にすっきりしない、あるいは、実はなにも解決していないようなままエピローグを迎えるものだって多い。

 で、もちろん、この不完全燃焼な結果を含めた鈴木先生のこの狂言回し的な立ち回りこそが、多くの人の関心や感動を呼んでいる。
 要するに学校社会なんてのは、不合理と不条理と不満と不信が不完全燃焼のまま突き進んでいく。もっというと「社会」とはそういうものだ。残念ながら完全なWIN-WINの関係というのは理想ではあっても幻だと思う。しかし、神の光明のごとく、どこかにすべての不合理や不条理や不満や不信を解決してくれる一筋の真理があるはずだというあてなき希望こそが、金八先生やごくせんその他の、いわゆる「教育物語」を生んでいるし、不合理を許容できない気持ちが、様々な社会事件にもつながっていくように見受けられる。このあたりは宗教上ではわりと古典的なテーゼで、旧約聖書のヨブ記など、どの宗教にも似たような教条がある。

 さて、鈴木先生のような、交通整理能力の高さこそが、今まさに求められているヒーロー像というところに、現実の学校教育の黄昏をも思うのであるのだが(こんな能力は、教育学部では教わらんよ)、学校に限らず、こういう交通整理能力のことをファシリテーションと称して、ビジネスの世界でもにわかに注目されてるそうな。

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ダーリンは外国人withBABY

2008年07月01日 | コミック
ダーリンは外国人withBABY----小栗左多里

この「ダーリンは外国人」シリーズは不思議な売れ方をしたように思う。
第1巻が出たとき、僕は書店でちょこっと立ち読みしてなかなか面白かったので、そのままレジに持っていった。
西原理恵子の影響があるな、とか、けっこう衣装もちなんだな、とか細かいところも見ながら、どうしてなかなか面白かった。

が、あまり話題にならなかった。

次に、「ダーリンは外国人②」が出た。
僕としては、最初のほうがいろんな意味で面白かったに思うのだが、この②が大ブレイクした。マスメディアで取り上げられのか、ローラー営業作戦があったのかよくわからないのだが、これで小栗左多里は一躍メジャー入りした。

そのあと、何冊か関連本やスピンアウト本が出て、で、最近、この「With BABY編」が出た。文字通り、子供が誕生したのであった。

で、改めてふりかえってみると、最初の1巻は確実に、タイトルのごとくに「外国人(それも日本オタクの)との共同生活にみるズレ」がメインテーマだった。が、だんだんそれが普通の夫婦エッセイになり、この「With BABY編」は完全に育児エッセイコミックになった。

どうも、作者が、「国際結婚色」を出すことに嫌気がさしているようなことが、行間から読み取れる(邪推ともいう)のである。

その気持ち、なんとなくわかる。
国際結婚というのはどうしたって色眼鏡で見られる。その色眼鏡があったからこそ、このシリーズはブレイクしたといってもたぶん間違いではない。だけど、作者としては「国際結婚」を看板にすることはどこかで自己否定につながっているように思える。作者は英語をしゃべれないし、さして外国文化に精通していたようなところもない。たまたま、つきあって結婚した人が、日本語の上手な外国人だったというところにある。
国際結婚色を出した第1巻は売れるための「名刺代わり」で、でもそれは仮面を被ったものだ。

第3巻の育児エッセイコミックは、こういっては身もフタもないわけだが、「ダーリンが日本人」であってもほぼそのまま通用するエピソードがほとんどだ。しかもいまや育児エッセイコミックは掃いて捨てるほどある。あえてそのマーケットに戦いを挑んでいるわけで、たぶん「国際結婚」色のほうが「商品」としては確立するのだろうが、こればかりは創作物であり、しかも作者はけっこう細部まで仕上がりにこだわり、主義主張も通すタイプなようなので、納得いかないものはなかなかつくれないのだろうって、うがちすぎかしら。

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うさぎドロップ第2部第1話(FEEL YOUNG)

2008年05月26日 | コミック
うさぎドロップ第2部第1話(FEEL YOUNG)---宇仁田ゆみ---コミック

 先日、「うさぎドロップ」の単行本を紹介したが、連載本誌である「FEEL YOUNG」では、第2部がスタートした。第1部から10年が経過し、6歳の女の子だった「りん」は、16歳の女子高生になり、父親代わりだった「ダイキチ」はさらに10歳年をとって40歳になった。

 第1部は、完全にダイキチの目線で書かれ(つまり、原則としてダイキチが不在のシーンでの出来事というのは、読者にも情報として開示されない)、親とは何か、育児とは何か、というのが一貫したテーマだったが、第2部を見る限り、視点は「りん」に移ったようだ。そうすると、今後は恋愛とか将来とか本当の母親との邂逅とか、そういったあたりが出てくるのだろうか。
 個人的には「育児」という視点でこのコミックは見ていたので、視点がりんにうつってしまったのは、ちょいと複雑な気持ちだが、もしかしてすごい大河ドラマになってしまうのではないかという期待もある。

 にしても、第2部の視点が「ダイキチ」ではなく「りん」にあるということは、畢竟16歳ともなれば、もはや親の視界に入らない世界が本人の中心になるということもである。当然の理であり、これは要するにうちの2才の娘も遠からずそうなるわけだ。わかっちゃいるけど、やっぱり切ないね。(ええ、親ばかで)

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うさぎドロップ

2008年05月19日 | コミック
うさぎドロップ---宇仁田ゆみ---コミック

 30歳独身男性と6歳少女の共同生活、と描くとまるでアブナイ萌えマンガを連想しそうだが、全然違う。「父親の育児」を扱っているのである。著者は育児や家庭マンガで定評ある宇仁田ゆみであるからして、問題意識や描写はわりとリアル。
 特に第1巻から第2巻前半くらいまでは慣れぬ父親(本当の父親ではないが)の子育てにまつわる悪戦苦闘が多く扱われており、ここは同感共感一直線。保育園送迎にともなって通勤カバンの仕様を変えざるを得なくなるとか、保育園帰りにほかの親御さんと一緒になってしまって、子供同士は仲良いが、親同士がぎこちないとか。

 というのは、僕自身「魔のイヤイヤ期」である2歳児を相手に育児格闘しているからだ。
 当然、仕事に制限・制約が生まれるし、職場の周囲の理解もこういうご時世なのでしぶしぶ黙認しているのは、これはもう肌でわかる。自らのこういう境遇、私事も仕事も、子供の生まれる前に比べ、極端に制約されてしまっている。

 最新刊である第4巻では、子供のインフルエンザによる長期休みをいかに対処するか、という話が出てくる。我が家でも先日、子供が水ぼうそうを体験し、1週間の保育園休みを余儀なくされた。急なことでヘルパーも空きがなくて頼めず、自分と妻で仕事を半日単位で区切って割り当て、さらに地方に住む親に1日だけ応援に来てもらってなんとか対処したのだが、もちろん仕事はめちゃくちゃで、ずいぶんあちこちに迷惑かけてしまった。水ぼうそうだからよかったものの、これがインフルエンザだったら、こちらに伝染ることも考えられるし(事実、子供がノロウィルスにかかったときは、見事にこちらに伝染した)、いやほんとみんなどうしてんだろ。

 で、ここが肝要なのだが、本書のテーマでもある(と思う)のだが、かといって自分が犠牲者とかいうネガティブな気持ちはまったくない。部分的、局所的にはいろいろあるし辛いこともたくさんあるが、全体的にはこの上ない幸せにある。自分で大事だと積極的に思えるものに、一番関わることができているからである。第2巻にあるセリフ「自分の中で大事なものの占める割合が大きく変わっただけ」。そうなのだよなあ。

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金田夫妻

2008年03月31日 | コミック
金田夫妻----けらえいこ----コミック

 けらえいこといえば、読売新聞日曜版連載「あたしンち」で最も有名な漫画家だと思うが、僕にとって最大のインパクトは「セキララ結婚生活」だ。7年前、なにげなく本屋をうろついていたら「7年目のセキララ結婚生活」が平積みされていて、けらえいこの名前も知らないのに、直感が働いたか、なかばジャケ買いに近い感覚で買ったからこれが大当たり。すぐにシリーズ全部そろえた(新婚・3年目・7年目。あと「戦うおよめさま」というのがある)。

 「セキララ結婚生活」は、僕の(そして妻の)結婚生活のバイブルであった。いや、僕にとっては、この本を知ってこそ”結婚する勇気”がわいたといっても過言ではない。
 ところが、残念なことに「7年目~」以降、続編が出ない。数年前に著者のインタビューを見たときは「続編絶対書きます!」と言っていたのを信じて首を長くして待っている。

 そしたら本書である。書店で見たときは「すわ、ついに新刊出たか!」と思ったが、よくよくみると様子が違う。これまでの単行本未発表の短編集なのであった。がそれでも嬉しい。あたしンちを除けば、ひさびさのけら本だ。
 絵柄の変遷は他の漫画家の例にもれずずいぶん激しいが、通底を流れるお笑いのセンスは今も昔も変わりないと思う。一見ナンセンス風なものでも、現在の「あたしンち」の随所でスパイスとして出てくる。
 それから、「セキララ・・」では注意深く避けられていた「夜のお話」が、フィクションのカタチを借りて堂々と出てくるあたりはちょっとおもろい。言い草が我が家の場合とまったく同じなのもおかしい。

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