読書の記録

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鈴木先生(第5巻)

2008年07月14日 | コミック
 鈴木先生(第5巻)---武富健治

 「裏×裏=表」という奇跡的な荒技で、教師マンガとしては異質にして孤高な作品であるが、今巻のエピソード「掃除当番」は、作者にとってかなり思いいれがあるようだ。
 というのは、ほとんどまったく同じプロットの話(コマ割りや構図もほとんど同じ)を既に過去において発表しており (作者は自分のホームページ上で全頁公開している)、作者自身によるその解説には一番の自信作と述べているからだ。

 つまり、「鈴木先生」のルーツは、このエピソードにある、といってもよい。

 ただ、そうするとひとつだけ興味深い問題がでてくる。
 現在連載されている「鈴木先生」は、もちろん教師である鈴木先生の視点で徹底される。
 それに対し、この「掃除当番」では、先生はほとんど存在感がなく、その問題意識はすべて主人公の女生徒である丸山のモノローグで表現される(「鈴木先生」では、彼女の日記が発見されるという形で再現される)。
 つまり、「鈴木先生」のルーツであるこの短編「掃除当番」では、教師役が不在の物語が完結しているのだ。

 要するに「鈴木先生」において、主題というか、描きたい対象や因果はすべて、言わば生徒側の倫理において発生し、生徒側の倫理において回収されているのであり、教師側から新しい倫理を獲得しているわけではない。この限りにおいて、鈴木先生は、実は壮大なる狂言回しでしかない。極端に言えば「鈴木先生」の物語の肝心なテーマにおいて、教師は不在なのだ。
 つまり、生徒側の「問いかけ」に対し、教師側は「解答する」という関係にはなく、せいぜい鈴木先生の役割としては、「問いかけ」られたものをデータを補完して整理して投げ返すだけなのである。で、この「状況の整理」に大汗かきながら自問自答するところがこのコミックの見所なわけである。
 だから、事件によっては非常にすっきりしない、あるいは、実はなにも解決していないようなままエピローグを迎えるものだって多い。

 で、もちろん、この不完全燃焼な結果を含めた鈴木先生のこの狂言回し的な立ち回りこそが、多くの人の関心や感動を呼んでいる。
 要するに学校社会なんてのは、不合理と不条理と不満と不信が不完全燃焼のまま突き進んでいく。もっというと「社会」とはそういうものだ。残念ながら完全なWIN-WINの関係というのは理想ではあっても幻だと思う。しかし、神の光明のごとく、どこかにすべての不合理や不条理や不満や不信を解決してくれる一筋の真理があるはずだというあてなき希望こそが、金八先生やごくせんその他の、いわゆる「教育物語」を生んでいるし、不合理を許容できない気持ちが、様々な社会事件にもつながっていくように見受けられる。このあたりは宗教上ではわりと古典的なテーゼで、旧約聖書のヨブ記など、どの宗教にも似たような教条がある。

 さて、鈴木先生のような、交通整理能力の高さこそが、今まさに求められているヒーロー像というところに、現実の学校教育の黄昏をも思うのであるのだが(こんな能力は、教育学部では教わらんよ)、学校に限らず、こういう交通整理能力のことをファシリテーションと称して、ビジネスの世界でもにわかに注目されてるそうな。

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