べつに言霊信仰を信じているわけではないけれども、こうして文章を書いたり考えたりしたことは、残る。その影響がちゃんと本人のなかに残っていて、ちからを持ち続ける。
静かに坐って、自分のなかを掘り下げていく作業をずっとやっていると、やがて気づくのは、産まれてからこのかた、考えたり思ったりしたことが、ことごとく自分のなかに残っているということだ。おそらく、すべてが。意識は記憶にすぎない、と言ったのはクリシュナムルティだった。逆に言えば、すべて記憶は残っていて、それが自分自身(=現在=意識)を創りあげているというわけだ。それを手放しなさい、と彼は言っているのだ。しかしこれは記憶をなくせと言っているわけではないから、とても難しい。
とくに、祈ったこと、書いたことは強く残る。これはもう歴然としていて、その事実を前に怖ろしくなる。ほとんど途方に暮れていると言ってもいい。
わたしはここに坐っていて、それを感じることができる。いつでも。かつて祈ったこと。愚かな祈願。その神々。書いたこと。それを一掃しなくてはいけない。澱が残るように、それは意識の底部で腐り始め、人生をだいなしにする。わたしはそれで自分をほとんど棒に振ったようなものだ。わたしは腐り始めた水をたたえて傷みはじめた紙コップのようなものだ。しかしそれを消し去ることはできない。できるのは、神道の言葉で言うと、せいぜい「祓い清める」だけだ。しかし消えるわけではない。
ひとに会うと、そのひとの背後に神がみえることがある。いや神と言うと語弊があるから、まあ精神と言い換えてもよい。それが陽気な山河の精霊のような無邪気なものだと嬉しくなる。そういう精神をもったひとは周囲と自分を幸せにするからだ。音楽を奏でるひとがよくそういう精神をもっている。しかし同じことを繰り返すようになったり、なにか信念のようなものをもちはじめると、台無しになる。ひとはすぐに台無しになる。
ときに、ある種の信仰心をもっているひとと会うと、暗澹とした気持ちになることがある。よっぽどの心構えがないと、その信仰心が澱になって、ほとんど呪いのようになっていることが少なくないからだ。これは度を越した怒りや厳格さや冷淡さ、あくの強い性格や、不信や不和をもたらす。ときには、なにもかも台無しにしてしまう。これほど破壊的なものはちょっとほかに見当たらない。文筆業をいとなんでいるひとも、似たような神をかかえていることがある。彼らに必要なのは「何をすべきか」「何を信じるべきか」ではなく、手放すことなのだ。しかし無理だろう。それはとても難しいことだからだ。
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この「澱」のことを、はじめて注意してくれたひとがいる。
もうずいぶん昔のことだ。わたしはまだ二十代の青年で、宗教への興味からいろいろな信仰に首を突っ込んだすえ、ある老人に会った。まったく偶然に、ひょんなことから出会ったのだ。ある秋のこと、東北の山のなかで。
静かな静かなお婆さんだった。肉体は老人なのに、清流がきらきら光るような、精神の輝きがあった。数人のひとびとが彼女を慕って集まり、話を聴いていた。
お婆さんは、お茶をすすめてくれて、そして、こんなことを言い始めた。穏やかな声だった。
「あんたはカミケが強い。なにも拝まないほうがいい」
そのときは、言われたことの意味が分からなかった。しかし強い印象があった。
そのほかに二、三の注意をうけた。注意といっても世間話のようなものだったが、わたしのための忠告であることはあきらかだった。しかしそれも意味が分からなかった。ふしぎなものだ。ありふれた簡単な言葉なのに、ほんとうの意味が分からないのだ。それから数年たって、お婆さんから言われたとおりのことが起きて、さらに時がたって、はじめて意味が分かるのだった。
風がやみ、森が静まりかえるように、話が終わった。そのお婆さんの神さまは白い龍だったので、その龍神にお礼を言うために参拝しようとしたら、こう言われた。
「手をあわせないでお帰りなさい。なにも拝まないほうがいい。ああ、お礼なんかいらないよ」
お礼に包もうとしたお賽銭も受け取らなかった。お婆さんは静かに微笑んでいた。
たいていの場合、人は何もかも失うということで、
手放すことになります。