飲酒の習慣を断ってからもう一年以上たつ。
断ってよかったと思うことはいろいろあるが、いちばんよかったのは、飲酒によって訪れる「祝福の瞬間」を自力で迎えられるようになったことだ。
たとえば、海のまえで水平線をながめる。美しい日射しをうけて、気持ちのよい風に吹かれる。やわらかな潮のにおい。陶然とした光のなかの多幸感。
その「澄んだ」瞬間を迎えるためだけに、酒を飲んでいた時期がある。もうずいぶん若いころのことだ。わたしは、まいにち必ず、夕暮れどきには酒を飲んでいた。あの多幸感と祝福の目で見つめる瞬間から得たものは多い。ものを観るために、ものを考えるために酒を飲んでいた。
しかしそれは本来、もともと酒なしで与えられていたものだ。
ふだん酒を飲んでいると、やがてその瞬間は、酒なしでは訪れなくなる。さらに酒だけでは続かなくなり、恩恵よりも多くの犠牲を払う必要が生じてくる。与えられたものよりも多くのものを手放すときがやってくる。
アメリカ先住民の伝統的な教えのなかには、ニコチンとのつきあい方が規定されている。ニコチンは聖なるものであり、それを粗末に扱ってはならない。注意ぶかく扱うべきであり、祈りをともなうものだ。それは他のドラッグにも通じる。
祈りでこころを満たし、多幸感にあふれた瞑想をまず行い、その瞑想のなかで、たとえば一本のタバコを吸ってみるといい。ひと口の酒をふくんでみるといい。彼らの言っていることが分かるだろう。しかし深入りしてはならない。量を増やすと、すべてが台無しになってしまう。
ニコチンに敬意を払うこと、酒に敬意を払うことは、自分の心に敬意を払うことでもある。濫用してはならない。愉しみのためにそれを用いてはならない。心の力を濫用し消耗させ、はずかしめることになるからだ。この「消耗」からもとに戻るのは、けっこう大変だ。
飲酒の習慣を断つところから、酒との出会いは始まる。