パソコンやインターネットを軽蔑している友人が、ふとこう言った。
「インターネットは、死の世界だね」
わたしは瞬時に、こう切り返した。
「そうだよ。本屋さんと同じようにね」
その友人は感心したような顔で「なるほど」と言って、わたしを見つめた。
むろんわたしの言う「死」と友人の言わんとした「死」は違う。しかしそんなに遠くはない。
クリシュナムルティというインド人が「意識は記憶にすぎない」と言っていて、わたしは20代のある夏をまるごと、この言葉を見つめ続けることで費やした。
当時住んでいたアパートの2階の窓から、隣家の敷地に植えられた樹が見える。その樹を毎日見つめながら、わたしは「私」を見つめつづけた。べつの窓からは遠くに多摩川の河川敷が見える。やたらと日当たりのいい部屋で、畳が陽に灼けていた。
たよりなく哀しく、寂しく、行き場のない、まずしい夏だったけれども、ずいぶんあとになってから、あんなに光にあふれた豊かな夏はなかったのだ、と気づいた。
「クリシュナムルティが来年には日本に来るらしいぞ」
ぜひとも会いに行きたい。そう思っていた。わたしが会いたい人物は彼しかいなかった。読みたい本は彼のものだけだった。彼がいよいよ来日するときには、青山のクリシュナムルティ・センターを訪ねるつもりだった。
しかしその年のうちに、彼は死んでしまった。
いま手許には、彼の残した言葉だけが残っている。
意識は、記憶にすぎない。
「私」は、過去にすぎない。
愛を、美を視るためには、それらを後にしなければならない。