以前、こちらでも書いた、阿久根市長の差別発言の件ですが、また新たな発言があったとの報道がありました。とりあえず、こちらを。
(2009年12月23日 ヨミウリオンラインより)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091222-OYT1T00653.htm
竹原氏は、差別と言われる視点が分からないと言うが、逆に僕はその感覚が、どう考えても分からない。
体の一部分を切り取り、全体を生き残らせる。そのようなことは確かに医学の上では行われていること。
同様の論理で、社会を「全体」、個人を「部分」と捉え、「全体」を守るために不必要な「部分」である個人を消し去るというのが彼の理屈なのだろうが、そこで消し去られようとしている個人は、その人にとっては間違いなくかけがえのない「全体」、すなわち、一度失われたら二度と戻ってこない、一つだけの命なのだ。
障害をもつ人を壊死した部分と同一視するというのは、言語道断の非人道的発言であると僕は考える。
そもそも、なぜ「刈り込まないと」社会が成り立たないのか?その理由がまったく分からない。「情緒で社会をつくることはできない」と言ったその口から出ている数々の発言が、彼個人の情緒的なものにしか聴こえてこない。
あわせてこちらも。
(同日の読売新聞朝刊1面コラム編集手帳)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20091222-OYT1T01504.htm?from=nwla
そう。持論を語る権利は表現の自由の一つなのだから、保障されるべきである(ただし、今回の件は他者の権利を侵害しているという点で大いに問題ありだが)。
人間を植物と同一視する死生観を持つのも、彼が自分に対して言うのであれば、「どうぞご勝手に」と言えばすむこと。
しかし、彼は「他者の」命の処分を、あたかも自分が神ででもあるかのような視点で論じた。
「言葉狩り」だと批判?
冗談じゃない。
彼に対する批判は、まさに彼が望む方法論を実現したものではないのか?
「木の枝の先が腐れば切り落とし、全体として活力のある状態にする」。
切り落とすべき「部分」は、障害を持つ人々では決してなく、人間の尊厳を踏みにじった彼のほうではないのか。だからこそ、各方面から、彼に対する批判が来ているのではないのか。
「編集手帳」の最後には、こんな文章があった。
持論を語る自由は誰にもあるから、障害者に振りかざす言葉の笞(むち)を力ずくで奪いはしない。障害者やその家族と一緒に血を流し、笞をもつその人を憐(あわ)れむのみである。
非人道的な発言をした相手にも、最低限の尊厳を認めた態度であると思う。
しかし、彼に対しては、憐れむことではなく、自らが行った発言によって傷つけられた多数の人々への謝罪を求める厳しい態度こそが必要なのではないだろうか。
彼が否定する「情緒」たる憐れみは、彼の元には届かないのだろうから。
今日一日、かなりこのことを考えていたのですが、何を目的としているのか、なぜそこまで障害を持つ人々に対して冷たい言葉の刃を向けるのか、まったく分かりません。
「お前がバカだから分からないんだろ」と言う人もいるのかも知れませんが、そんな思考に納得するような人間に成り下がるぐらいなら、バカで結構。
(2009年12月23日 ヨミウリオンラインより)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091222-OYT1T00653.htm
竹原氏は、差別と言われる視点が分からないと言うが、逆に僕はその感覚が、どう考えても分からない。
体の一部分を切り取り、全体を生き残らせる。そのようなことは確かに医学の上では行われていること。
同様の論理で、社会を「全体」、個人を「部分」と捉え、「全体」を守るために不必要な「部分」である個人を消し去るというのが彼の理屈なのだろうが、そこで消し去られようとしている個人は、その人にとっては間違いなくかけがえのない「全体」、すなわち、一度失われたら二度と戻ってこない、一つだけの命なのだ。
障害をもつ人を壊死した部分と同一視するというのは、言語道断の非人道的発言であると僕は考える。
そもそも、なぜ「刈り込まないと」社会が成り立たないのか?その理由がまったく分からない。「情緒で社会をつくることはできない」と言ったその口から出ている数々の発言が、彼個人の情緒的なものにしか聴こえてこない。
あわせてこちらも。
(同日の読売新聞朝刊1面コラム編集手帳)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20091222-OYT1T01504.htm?from=nwla
そう。持論を語る権利は表現の自由の一つなのだから、保障されるべきである(ただし、今回の件は他者の権利を侵害しているという点で大いに問題ありだが)。
人間を植物と同一視する死生観を持つのも、彼が自分に対して言うのであれば、「どうぞご勝手に」と言えばすむこと。
しかし、彼は「他者の」命の処分を、あたかも自分が神ででもあるかのような視点で論じた。
「言葉狩り」だと批判?
冗談じゃない。
彼に対する批判は、まさに彼が望む方法論を実現したものではないのか?
「木の枝の先が腐れば切り落とし、全体として活力のある状態にする」。
切り落とすべき「部分」は、障害を持つ人々では決してなく、人間の尊厳を踏みにじった彼のほうではないのか。だからこそ、各方面から、彼に対する批判が来ているのではないのか。
「編集手帳」の最後には、こんな文章があった。
持論を語る自由は誰にもあるから、障害者に振りかざす言葉の笞(むち)を力ずくで奪いはしない。障害者やその家族と一緒に血を流し、笞をもつその人を憐(あわ)れむのみである。
非人道的な発言をした相手にも、最低限の尊厳を認めた態度であると思う。
しかし、彼に対しては、憐れむことではなく、自らが行った発言によって傷つけられた多数の人々への謝罪を求める厳しい態度こそが必要なのではないだろうか。
彼が否定する「情緒」たる憐れみは、彼の元には届かないのだろうから。
今日一日、かなりこのことを考えていたのですが、何を目的としているのか、なぜそこまで障害を持つ人々に対して冷たい言葉の刃を向けるのか、まったく分かりません。
「お前がバカだから分からないんだろ」と言う人もいるのかも知れませんが、そんな思考に納得するような人間に成り下がるぐらいなら、バカで結構。